アナログからデジタルへ(8) 大学時代

アナログからデジタルへ(8) 大学時代
2015年03月10日(火) 晴れ

 本日は、風の強い一日であった。今週は気温の低い日が続くらしいが、週末には暖かくなるそうなので、いよいよ春の訪れとなるのかもしれない。
さて、「アナログからデジタルへ」と銘打って続けて来たシリ−ズも、いよいよ大学時代まで進んできた。自分のカメラを買うのが入社2年目の1978年10月なので、紙の写真しか存在しない時期は大学時代+社会人2年目前半までの残り5年半であり、このシリーズも残すところあと僅かである。

 私の大学生生活は地元福岡で過ごした。幸い、スパルタ教育進学校での猛特訓と強運がモノを言って、現役で第一志望の地元国立大学・九州大学に入学することが出来た。ちなみに、高3の夏までは漠然と地元の大学がイイと思っていた程度だったのだが、夏に友人と一緒に行った九大の学園祭(六本松キャンパス)で、フォークソング部の女性デュエットが歌ったのが当時流行していた「サルビアの花」であり、デュエットの一人がとてもチャーミングな女性だったので一目で胸キュンとなってしまい、「ああ九大に行きたいナァ」とその時に実感してしまった。まあ何と不純でお気楽な動機だったのであろう。まあ、合格出来たのだから善しとしよう。なお、後で分かったことであるが、この話にはオチがあり、実は、この女性、中3の時の同級生のお姉さんだったのである。
 年が明けて1973年の3月、1日が高校の卒業式であり、記憶が正しければ翌日の2日から2日間が国立一期校の入試であった。当時はまだ、現在のセンター試験どころか、その前身である共通一次試験と言う制度すら始まっていなかったので、国立大学の入試は一期校と二期校に分かれていて、従って、国立大学の入試としては2回のチャンスがあった。私は一期校は九州大学、二期校は鹿児島大学を受験する予定であった。一期校の入試科目は、私は理系志望だったので、主要3教科(国、数、英)と理科(1科目指定+1科目選択)、社会(1科目選択)であった。理科の指定科目は物理・化学のどちらかであり、年に依ってどちらが指定されるか分からなかったので、受験生は実質的には物理、化学の2科目を選択するしか無かった。入試が終わった3月3日の午後には、福岡市内の中心街・天神で思いっきりボウリングを楽しみ、翌日から二期校の入試準備に取りかかったものである。ただし、一期校の合格発表が近づくと やはり心穏やかにはなれず、発表前日にはもう勉強が手に付かない状態になっていた。実を言うと、私の叔父が当時九大職員だったのであるが、合否結果が分かったら前日に可能なら連絡してくれると言われていたことがあって、前日は心穏やかにはなれなかったのである。午後になり、夕方になっても連絡が無く、私の精神状態は混乱の局地に達していたため、「こんな事では駄目だ、勉強が出来ない」と思い、ある行動を取った。その行動とは、押入に入って座禅を組み、頭の中を真っ白にして心の中に「」と言う文字を思い浮かべたのである。その状態を1時間ほど続けていると自然と身体の力が抜け、心が無心になれた。そこで机の前に戻り、二期校の受験勉強を再開。穏やかな心境で勉強に取り組めたのを覚えている。そうこうするうちに、父が部屋に入って来て、電話が掛かっているから出ろと言われ、受話器を取ったところ「合格」と言う叔父の声が聞こえてきたのである。叔父の方も翌日の合格発表準備に追われていて、自分だけ抜けて連絡の電話をする訳には行かなかったので遅くなったと言っていた。叔父には、私の他にも何人かの友人の分の結果もお願いしていたので、合格した友人には急いで電話して吉報を伝えた。
 さて翌日、箱崎キャンパスでの合格発表を見に行く予定にしていたので、友人と二人で現地に向かう。往きの電車の中では、もし合格してテレビ局のインタビューでも受けたらどうしようかなどと言う軽口を叩く一方で、昨夜の連絡が間違いだったと言うこともあり得ると言う思いも僅かにはあったので、まあ、実際に掲示板を見るまでは一抹の不安はあった。発表会場には同じ高校の多くの受験生のほかに担任の先生も来られていた。そして合格者を書いた掲示板の公開である。一瞬、自分の名前が見つからず「まさか」と思ったのだが、自分の名前を見つけてホッとした。掲示板前の人混みから出て来て、一緒に来た友人と抱き合って喜んでいたところ、何と、冗談じゃなくテレビ局のアナウンサーがマイクを私達に向けて来たのである。そして、アナウンサーからの質問は、「今、合格を誰に一番伝えたいですか?」と言うものであった。普通なら「両親です」と応えるのが当たり前のところであるが、どうも私は馬鹿正直なところがあり、嘘が言えないのである。つまり、私の両親は前夜に既に結果を知っている訳であり、白々しく「両親です」とは私にはとても言えないのである。私の頭の中は、正直なところ、先ほど発表会場で会った担任の先生に早く伝えたいと言う思いで一杯だったので、インタビューには思わず「先生です」と応えていた。ところが、どうやら、この放送を高校の職員室のテレビで見ていた先生方に大受けしたらしいのである。まあ、私がウケを狙って「先生です」と回答したのだと思ったのだろう。無意識な行動ほど笑いを取るという典型的な例である。
 さて、大学に入ると、高校時代から部活でやっていた友人の誘いに乗り、バドミントン部に入部することにした。飽きっぽい性格の私にもバドミントンは1年間続いた。九大の場合、入学後1年半(医学部は確か2年間)は専門課程ではなく教養課程と言うことで、六本松キャンパスで全学部混合で一般教養課程の講義を受講する。ここで所定の単位を取得出来れば2年の下期(10月)から専門課程に進級、単位が不足した場合は留年である。幸い私は進級でき、通学先が福岡市東部の箱崎キャンパスへと変わった。専攻は数学科だったので、午前中は教授/助教授による代数学、幾何学、解析学、統計数学の講義、午後は講師による演習の時間であったが、3年にもなると、演習は欠席がちになり、中華ゲーム理論(麻雀です)に勤しんでいたものである。4年になると、いよいよ卒業研究と就活の始まりである。数学科の場合、卒論というのが無くて代わりに卒業研究(各講座の教授に付いてのゼミ)がある。私は、計算数学の教授に付いてオートマタ理論と言うのをやった。簡単に言えば、コンピュータを数学的にモデル化した理論である。と言いつつ、良く分かっていないのだが。(笑)
 就職につては、当時は第二次オイルショックの直後であり、超厳しい就職難であった。当然の結果として、公務員試験や教員試験の倍率が非常に高かった。数学科と言うのは理系と言いつつもツブシが効くと良く言われていた学科であったが、卒業後の道としては、大学院に進むか、数学教師になるか、銀行系企業か、コンピュータ系企業と言うのが多かった。私はと言えば、正直、殆ど就活はしていない。みんなが本格的に就活を始める前に余り考えずに決めてしまったと言うのが正しい。私が専攻したゼミの教授のところには、毎年、富士通から数名の募集があると聞いていたのだが、その年にも2名の募集が来た。先方の希望は大学院生2名だったらしいが、私は気にせず即、教授に推薦状を書いて貰って応募した。ちなみに同じゼミのメンバは男性5名、女性1名だったが、男性1名は高校教師、男性2名は東大教授、九大教授になっているので、民間に就職した男性は私だけかもしれない。就職試験に関しては実は一悶着あった。応募はしたものの、その後、富士通からは連絡なし。未だか未だかと連絡を待っていたとある日の朝、家に富士通から電話があり、その日が入社試験日だったらしく、「お宅は弊社を受験する意志が無いと言うことでいいですね?」と言われたらしい。母が連絡が無いので待ちかねていたと事情を話して、別の日に試験日を割り当てて貰えたのだが、どうやら、就職担当教授が、自分の部屋のポストに届いていた富士通からの郵便物をチェックしていなかった様である。学生課を通してクレームを上げたが、「気が付かなくて悪かったねえ」の一言で終わりである。まかり間違えば私の人生が変わっていたところである。まあ、私も、その日に限って夜遅くまで中華ゲーム理論に夢中になり、帰宅が遅くなったので大きなことは言えないのだが。(^^;)
 まあ、大学4年間は一言で言えば楽しかった。勉強の方はまあソコソコであったと思うが、バドミントン、硬式テニス、麻雀、将棋、囲碁、適度なバイト(家庭教師、運送屋(父の会社)の助手、測量など)と薄く幅広く経験することが出来た。

期間 キャンパス 課程
1973年(昭和48年)4月〜1974年(昭和49年)9月 六本松キャンパス 教養部
1974年(昭和49年)10月〜1977年(昭和52年)3月 箱崎キャンパス 理学部数学科

■部活動(バドミントン部)


1 部活風景。六本松キャンパス体育館にて


2 フォアハンド・クリアショット素振り練習


3 バックハンド・ドライブショット素振り練習


4 ロングサーブを打った後


5 カットショット


6 バレーボールのフライング(息抜きのお遊び)


7 1年生部員の3人 (合宿所にて)


8 1年生部員


9 バドミントン部員


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11 先輩


12 先輩女性陣


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14 鹿児島出身の2年生の先輩


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16 同級生

■広島大学定期戦。広島大学に遠征(1974年3月下旬)


17 広島県の社会人を含めた女子ダブルスNo1ペア


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19 広島県の社会人を含めた女子ダブルスNo2ペア


20 広島県女子ダブルスno2ペアに歯が立たずコロリと負けた


21 広島大バドミントン部と一緒に記念撮影


22 懇親会風景

■広島大学定期戦の帰りに宮島観光(厳島)


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■理学部数学科メンバ


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32 卒業式 (1977年3月26日) 


33 数学科メンバ記念写真 


34 藤野精一教授ゼミ関係者とゼミメンバ