追憶(4) チャリンコ
2012年5月26日(土) 晴れ
更新:2023年10月13日(金)
先週できた足の裏のマメのため、今週は、三島駅から自宅までの通勤ウォーキングを控えていたが、ようやく、マメも癒えた様なので、本日は、足慣らしを兼ねて御殿場プレミアムアウトレットを散策してきた。
いつもなら、混雑する前にと思い、オープン時間に合わせて出掛けるのだが、本日は、試しに夕方に行ってみた。
予想どおり、夕方の時間は帰る人の方が多いので、駐車場もアウトレット内も、比較的人が少なくて、ゆったりと買い物をすることが出来た。
さて、今日はチャリの話をしてみよう。
私がチャリンコ(自転車)に乗れる様になったのは、いつだったかハッキリとは憶えていないが、多分、小学校の低学年の頃だったと思う。
友だちの自転車に乗らせて貰って、その日のうちに乗れる様になったのではなかったろうか。
乗れる様になると、今度は、どうしても欲しくなると言うのが子供ごころである。
当時、近所に住んでいた母方の祖父に、「買ってくれ」と言って、せがんだのを良く憶えている。
最初は優しく話を聞いていた祖父も、私が余りにひつこくせがむので、仕舞いには怒って「もう買わない」とハネつけられてしまったのである。
そして、最初に我が家に自転車が来たのは、私が小学校5年の時である。
その自転車は、高校に進学する5歳年上の兄が、通学に使うためのものであった。
昔は、自転車と言えば、真っ直ぐなハンドル、大きな荷台が後ろに付いた黒い車体の自転車という、ちょうど蕎麦屋の出前にでも使いそうな自転車のイメージが一般的だったのだが、ちょうど兄の自転車を買った頃が、スポーツ車とか軽快車と呼ばれるタイプの自転車が、世の中に出始めた頃である。
曲線的なハンドル、車体の色は、青や緑の鮮やかな色で、軽い素材の自転車が、世の中の主流になり始めたのである。
スポーツ車には、変速機(ギア)が装備されていたが、変速機には内装と外装という二つの方式があった。
自転車は、「ペダルの歯車」と「後輪の歯車」がチェーンで連動しており、ペダルを漕いだ回転力が後輪に伝わり、後輪の回転力となる構造になっている。
スポーツ車の場合、後輪の車軸に、歯数の異なる複数の歯車が装着されていて、チェーンをどの歯車に噛み合わせるかを操作するのがギアである。
後輪の歯車を切り替える事により、ペダルの回転数と後輪の回転数の比率が変わる仕組みがギアである。ペダルと後輪の歯数比率が(1:1)ならば、ペダルの回転数=後輪の回転数。(2:1)ならば、ペダルが1回転する間に後輪は2回転する(速度が2倍になる)。
その切替え機構が外側にあるのが外装、車輪軸の筒の中にあるのが内装である。
内装タイプの自転車は、時代と共に姿を消して行き、今では、外装タイプだけに淘汰されて行ったのだと思う。
兄が買って貰ったのは内装3段変速の自転車だった。タイヤが26インチだったので、残念ながら、小学生の私には大き過ぎて、ちょっと乗れなかった。
そのうちに、ようやく私も自転車を買って貰えたのだが、兄の様な新品のスポーツ車ではなく、昔ながらの古いタイプの車体で、タイヤが24インチの中古自転車だった。
まあ、貧乏家族の二男坊だった当時では、そのあたりが相応といったところである。
自転車が手に入ると、行動範囲もグンと広がる。
当時(昭和40年頃)は、小学校の数も、今ほど多くはなかったので、小学校の校区は、かなり広かったのだが、自転車に乗るようになってからは、学校から帰った後に、校区の反対側の端の地区の同級生とも遊ぶ様になったものである。
それから3年後、兄が高校を卒業してからは、兄の自転車が私の自転車となった。
自転車に限った話では無いが、高度成長期を経た現在の裕福な日本とは違い、当時の日本では、弟は兄の「お古」を使うというのが当たり前の時代であった(笑)。
大学4年の時、福岡市の西区(現在は城南区)に住んでいた私は、10km先にある東区の大学まで、バスを乗り継いで通学していたのだが、当時、麻雀にハマっていた私は、講義の後は雀荘に入り浸りの状態であった。
麻雀と言うものは、4人で半チャン(各人が「親」を2回ずつやって終局となる)単位で勝敗を決めるゲームなので、その局が終わって点数計算するまでは、途中で抜ける訳には行かない。
同級生の殆どは、大学近くに下宿していたので、帰りの「足」を気にする必要がなく、そうなると、どうしても終了時刻が遅くなる傾向になり、自宅からの通学生である私は、帰宅する「足」が問題になる訳である。
大学から福岡市の中心・天神までは、遅くまでバスがあるものの、乗り継ぎバス(天神~自宅間)の最終時刻に間に合わない事が度々あったため、(天神~自宅)間の5kmを、深夜に歩いて帰る事が少なくなかった。
これを解決すると言った不純な動機のもとに、バイトなどで貯めていたお金で自転車を購入した。
外装5段変速でドロップハンドルの自転車が、私が自分で買った最初の自転車である。5万円くらいしたと思う。
この自転車は、私が就職して上京してからは、誰にも使われずに実家の玄関の片隅に置かれていたのだが、邪魔になる言われていたので、何度目かの帰省の折に、叔父の家まで乗って行き、従弟に貰ってもらう事にした。
就職して7年目の1983年夏、川崎市(神奈川県)の職場から沼津市(静岡県)の工場に転勤することになり、沼津の住人となったのだが、職場の同僚に奨められて、ツーリング用の自転車を買うことにした。
ツーリング用なので、六角レンチと言う工具を使って分解し、輪行袋に詰めて電車で移動できる(下車した駅の前で、組み立てて元に戻せる)様になっている。お値段の方は15万円。
秋には、早速、ツーリング仲間と2泊3日の輪行をした。大菩薩峠(山梨県)までの山岳サイクリングを含むツーリングである。峠道(登山道)なので、勿論、自転車を担いでの峠越えという区間も有りである。
この時は、沼津から東海道線~身延線~中央線と乗り継いで塩山(えんざん)駅まで輪行し、そこからサイクリング(塩山駅前~大菩薩峠~大月駅前)、大月から富士吉田まで富士急電鉄で輪行して、富士吉田から山中湖を経由して、篭坂(かごさか)峠を越えて、沼津まで走って戻ったのだが、篭坂峠から三島近くまでは、ずっと緩やかな下り坂であり、ペダルを漕ぐことなく流して走れたのが、とても気持ち良かったのを覚えている。
その後も、伊豆の仁科峠越えツーリング、熱函道路から箱根峠、芦ノ湖、長尾峠を越えてのツーリングなどを楽しみ、1984年のゴールデンウィークには、京都、奈良、三重を3泊4日で縦走した。
その時の、最後の夜に泊まった美杉(みすぎ)温泉(三重県)で、温泉に浸かりながら、「今度は北海道を走りたいね」と話したのがキッカケで、以後、3年連続で夏に7泊8日の北海道サイクリングを挙行することになる。
そのツーリング用自転車「グロワール号」も、結婚後は、車を使う生活に変わったので乗ることもなくなり、今では、自宅の物置で静かに眠っている。
あと2年半、会社を定年退職したら、また引っ張り出して来て、たまには乗りたいとも思うが、果たしてどうなることやら。
自宅が坂の上と言うのもネックではある。
以上が、私のチャリンコの想い出である。
【2023/10/13追記】
36年間お世話になった会社を2013年6月末に退職し、365連休の自由な身の上になったので、久しぶりに自転車にでも乗るかと思い立ち、自転車をまた購入する事にした。
そして、10月に自転車が納車されたので、まずは、近場を走る事から始めて、感覚を取り戻そうと思い、ハローワークに行く際には自転車で行く事にした。
ところが、思いもしなかったのだが、交通量の多いバス通り(車道)を走ったところ、後続車から追い越される際に、「怖さ」を感じてしまったのである。
若い頃には、全く感じもしなかった事であり、その時に、「歳を取ったんだなナァ」と実感してしまった。
その後も、ハローワークへの往復には自転車を使い続けたのだが、「自転車通行可」の歩道では、歩道を走る事にした。
一年間通い続けたハローワークも、希望する勤め先(世間への恩返しと言う意味で、役所等の公共系の職種)への応募を何回かしたものの、部下(私)が60代では、上司となる若い女性の方が指示を出し辛いらしく、そういう説明をされて面接の時点で落とされ、結局、13ヶ月通ったところで、再就職を諦め、ハローワー通いを終わりにした。
それ以降は、帰宅時が登り坂と言う悪条件もあり、自転車に乗る機会が減り、殆ど新車の状態で玄関前にカバーを掛けた自転車が置かれる状態が続いている。
古稀を迎えた身では、もう乗る事も無かろうと思う。