追憶(1) 地上11階の生活


追憶(1) 地上11階の生活
2011年3月11日(金) 晴れ
 
神奈川県川崎市中原区のJR横須賀線・武蔵小杉駅前にあるビルの11階、昼休みを終え いつもの様に仕事をしていると、突然大きな揺れ。
数日前にも、結構大きな揺れを感じたが、この日の揺れは一段と大きい。また来たか・・・。
 
34年前に就職して、福岡から関東に出て来て以来、地震には慣れっこになってしまったが、その中でも、今回の揺れは大きい方、・・・と思っていたら、そのうちに、机につかまらないと椅子に座っていられない揺れになって来た。これはもう、私が生まれて以来 最大の地震である。
 
それにしても、揺れが長く続く。あとで聞いたところによると、このビルは免震構造になっているために、地震の揺れが終わった後も、撓る(しなる)様な揺れが続くらしい。
 
仕事を再開したが、パソコンの画面を見ていると、だんだん気持ちが悪くなり、船酔いした様な気分になって来たので仕事の手を止める。
そのうちに、周りで色々な情報が飛び交い始め、やがて誰かが、会議室に置いてあるテレビ会議用の大型テレビを、事務所フロアに引っ張り出して来て、ニュースを流し始めた。
どうやら、震源地は東北の方らしく、関東でもあちこちで火災が発生している模様である。千葉の石油コンビナートでも、火の手が上がっている。
 
しばらくすると、津波の映像が流れてくる、原子力発電所の映像が流れてくる、・・・ここ11階のビル内では、「揺れたナァ」と大騒ぎになる程度であるが、世の中では信じられない大変な事態が起きているのである。
 
ビルの自家発電により照明は点いているものの、エレベーターは全機停止、夕方になると、都内のホテルは予約で満室状態になったと言う情報が流れ始める。
首都圏の交通機関が全面ストップしている訳であるから、当然と言えば当然のことである。
頭の回転の速い人は、対応も速いものだと感心するも、自分自身は、まだ他人事の様で先のことを何も考えていない。ただ、「新幹線は、いつ運転再開するのかなあ」と漠然と考えている程度である。
 
取りあえず、夕食の買い出しをせねばと思い始めると、向かいのスーパーには長蛇の列が出来ていて、入場制限しているとか、コンビニにはモノが無くなりつつあるとか、酒場は帰宅待機客で一杯とか言う情報が耳に入ってくる。
都内の道路は、信号が消えて大渋滞で、車が動かない状態になっていると言う。
とにかく、買い出しに行かねばと、ビルの非常階段を下りて地上に出る。
 
同ビルの1階に入居しているコンビニに行って見ると、情報どおり、沢山の人でごった返しており、買い物カゴも余ってなく、レジの前には長い列が出来ていた。
仕方がないので、パンを運んできたらしい空き箱に、カップラーメン、おつまみ類、お酒を入れてレジの列に加わる。職場の人の分も考えて、1万円程度の量を買い求める。
 
さて、帰りが大変である。
往きは下り階段だったので何とか降りれたが、帰りは登り階段。この歳では、一気に11階まで登るのは厳しく、途中で何度か一服しながら11階へ。
 
フロア内では、まだ仕事をしている人もいるので、会議室に買い込んで来たものを広げ、周りに声を掛ける。やがて、職場のメンバが集まって来て、ラーメン、お酒を食しながらの雑談が始まる。
私は、いつも細長い水筒を2本、自宅から持参しているのだが、給湯室に行ってこの水筒に熱湯を詰めて会議室に持って行ったのが、皆がカップラーメンを作るのに役だった。
そして、やがては、お湯の使い途が、カップラーメンから焼酎のお湯割りへと変わる。
 
事務所の住人も、歩いて帰れる人は帰宅し始めたが、横浜、千葉、埼玉と言った10kmを超える通勤圏の人達は、事務所で一夜を明かす覚悟らしい。
私はと言えば、新幹線は11時頃には運転再開した様だが、ビルのすぐ近くを走る新幹線も、駅は品川か新横浜にしかなく、決して歩けない距離ではないが、着いた深夜の時刻に運転が継続されている保証は何もないので、結局、事務所で夜明かしするしかない。
 
夜になって、携帯電話が何とか繋がる様になり、カミサンと息子が、車でこちらに向かっているとの連絡が入ったが、御殿場の先でピッタリ動かなくなってしまったと言う話だったので、引き返す様に言い、事務所で一夜を明かす覚悟を決めた。
 
仙台に単身赴任している高校の友人のことを思い出し、メールしてみたところ、「取りあえず無事で、空港ビルで夜を明かす」との返事が返って来たので、ホッと胸をなで下ろす。
 
(これは後日、同窓会で会った時に聞いた話だが、当日は仙台空港にいて、地震のあと空港の外に一旦避難したらしいが、津波が来ると聞いて、半信半疑ながらも空港ビルに戻ったとのこと。もし戻ってなかったら、今頃は生きていなかったろうと言う友人の言葉を聞いて、本当に驚いてしまった)
 
さて、事務所で一夜を過ごすに当たっては、コートを布団代わりに掛ければ寒さは問題ないのだが、寝床の方が、会議室の椅子を並べて横になっても、会議テーブルの上に横になっても、しっくり来ず、結局、自席の椅子に座って仮眠することに。
まあ、東北の被災地の方々に比べれば、贅沢な悩みである。
 
数時間ウトウトしたあと、東急東横線が運転再開しているのを見て、5時過ぎに会社を出発して帰途に着く。
東横線で渋谷に出て、地下鉄銀座線に乗り換え、丸ノ内線と乗り継いで東京駅まで辿り着くと、ちょうど、6:33発の「こだま」が出発するところだったので、飛び乗って無事三島に帰還。
 
今日は、2012年3月11日(日)、あれから一年である。
計画停電あり、節電あり、色んなことがあった1年だったが、被災地の復興、原発事故の復旧は遅れに遅れており、被災地の方々は今も尚、不自由な暮らしを余儀なくされている。
今日は、どのテレビ局も、朝から東北大地震の特番を組んでおり、被災地では、亡くなられた方々の慰霊の催しが、各地で執り行われている。
法律的な課題、政治的な課題、住民感情の問題など、数多くのハードルがあって復興が遅れているらしいが、出来るだけ早く復興して欲しいものである。
 
そんな中、我が家の梅の木にも、ようやく花が開き、今朝は鶯が何羽も訪れているのを見る事ができた。穏やかな日曜の朝である。
 
1 今朝、鶯が何羽も集まった我が家の梅の木