【歴史】ロシアの歴史(3) プーチン大統領 国内大改革

【歴史】ロシアの歴史(3) プーチン大統領 国内大改革
2016年02月16日(火) 晴れ

 参考書籍:プーチン 最後の聖戦」 著者:北野幸伯(きたのよしのり)

■大統領就任 2000年5月

■国家の組織改革 2000年5月
(1)連邦管区の設置
・従来の連邦構成体(日本の都道府県相当) ・・・・・・ 共和国地方自治 などが合計89個。  共和国はロシア人よりも少数民族の方が多い構成体。
プーチンは、89の連邦構成体を7つのグループに分け、各グループを統括する上位組織として連邦管区を設置。
・各連邦管区に、連邦政府(中央)から大統領全権代表を派遣し、管区内の連邦構成体を監視・監督させる。初代の大統領全権代表は、7人中5人がロシア軍の将軍を派遣した。
(2)国会議員の選定条件変更

  下院議員 上院議員
従来 国民の選挙 連邦構成体の首長が兼任
改革後 同上 各連邦構成体の行政府代表と立法機関代表の各1名ずつ。但し、連邦構成体の首長は兼任出来ない様にした。

(3)連邦構成体首長の解任権限新設
・連邦法に違反した首長は、連邦政府が解任できる様にした。
(#)組織改革の狙い
・地方での首長の汚職の撲滅、首長への権力集中の回避、中央集権の強化

■新興財閥への対応 2000年6月〜2001年3月
(1)グシンスキーの排除
・反プーチン、「ロシアのメディア王」と呼ばれ、政権批判を遠慮無く行い、世界のユダヤ人会議でも影響力のあったグシンスキーを、横領・詐欺などの容疑で逮捕。3日後に釈放されたが、彼はスペインに亡命した。残った民法最大手のNTVは天然ガス世界最大手のガスプロムが買収。
(2)ベレゾフスキーの排除
プーチンを大統領にして自分の支配が出来る傀儡政権を作るつもりだったベレゾフスキーだが、大統領就任後にプーチンから距離を置かれ反プーチンに回る。「ロシア原潜クルスク沈没事故」発生時に休暇中で対応が遅れたプーチンを、自分が支配するテレビ局OTRを使って強く批判。自分の足を引っ張るベレゾフスキーをプーチンはバッサリ切った。ロシアから脱出したベレゾフスキーはロンドンに在住。
(3)新興財閥企業への締め付け
以下の様なロシア経済の中枢を為す巨大企業を、検察を通して一斉に告訴、摘発。
・ノリリスク・ニッケル社の民営化の際の評価が過小だったと言う理由で、民間投資会社のポターニン会長に1.4億ドルの支払を要求。
・石油最大手のルクオイル社、自動車最大手アフトバス社を脱税容疑で告訴。
・グシンスキーの会社メディア・モストを家宅捜査、傘下のNTVから書類押収。
プーチンは、新興財閥のほぼ全員に招集を掛け、不正を強く糾弾。この様子をテレビでロシア国内に放映したため、新興財閥を良く思っていなかった国民からの支持率がうなぎ登りで73%となった。結局、新興財閥達は降参し、「本業に励み、政治には口出ししません。」と反省文をプーチンに提出。新興財閥の掌握に成功した。同時に、ORT、NTVを奪うことで政府によるマスコミ支配を確立した。

■下院の支配 2001年4月〜12月
・下院の最大勢力である共産党を抑えるべく、プーチンは、自分が率いる「統一」(第2党)とKGBの先輩プリマコフが率いる「祖国・全ロシア」(第3党)を協議の上統合し、「統一ロシア」を下院の第1党として誕生させた。

天然ガス世界最大手のガスプロムを支配 2001年6月
・「ロシアの中のもう一つの国家」と呼ばれるほどに強大化したガスプロム社、その初代社長ヴャヒレフが政府株40%のうちの35%を私物化し税金を払っていない状態が続いていたが、社長任期切れに際して更新せずに辞職させ、信頼の置ける自分の友人を次期社長に就任させた。以降は正しく納税される様になり、ロシア税収の25%を占めるほどになった。

■ロシア経済の復興
原油価格の高騰、ルーブル安による輸出競争力向上などの運もあり、輸出は前年比40%増、貿易黒字は前年比200%、税収増も加わってソ連崩壊後初めて財政黒字に転換した。
・土地の私有と売買を自由化し、所得税法人税を減税した。この減税措置により、地下経済が表に出て来て税収は逆に増えた。ロシアでは、それまで納税意識が低く、収入を低く申告するなどして正規の1割程度しか納税されていなかったらしい。それに対し、取り締まりが厳しくなったのと所得税率が下がったことで、捕まるリスクを冒すよりも正直に納税した方が良いと言う話になったらしい。