配属先部門での新人集合教育


配属先部門での新人集合教育
時期:1977年5月6日(金)~8月19日(金)
作成:2022年7月13日(水)
 
ゴールデンウィークの帰省から戻った翌日の5月6日より、配属先であるソフトウェア事業部の新人集合教育が始まった。場所は、東急目蒲線・蒲田駅を出たすぐ近くにあるグランタンビルである。
 
ソフトウェア事業部が入っている事業所は、国鉄(現JR東日本)の蒲田駅から京浜東北線沿いに南方向に5分ほど歩いた所にある富士通情報システムラボラトリ(通称シスラボ、蒲田シスラボ 2022年現在の「富士通ソリューションスクエア」 )である。
そのため、新人集合教育の場所も同じ蒲田である。高専卒と大卒の新人が同じカリキュラムで教育を受講することになっていたが、人数は100人前後であり、クラスは2クラスに分かれていた。
 
この頃の時代は、情報システム(現在の言い方ではIT)の企業が急成長している頃だったので、富士通の新人採用人数も、大卒だけでも毎年千人を超えていたと思う。
会社の従業員数も、この頃は毎年大幅な伸びをしている時代であった。
 
講師は、ソフトウェア事業部計画部教育課の力(ちから)さんともう一人(斎藤さんだったかな?)。教育の内容は、電子計算機の大まかな仕組み、プログラミング言語の習得である。
プログラム言語としては、富士通製コンピュータの機械語(16桁、または32桁の2進数)に1対1に対応させて視認性を高めたアセンブラ言語と、そのアセンブラ言語の使用パターンに合わせてn対1に対応させた社内開発言語の2種類を学んだ。
 
この当時のコンピュータは、センター集中型の大型コンピュータ時代であり、米国企業IBMが世界の6〜7割のシェアを持っていた。
富士通は、前年の1976年に、それまでの富士通独自仕様のコンピュータからIBMコンピュータとの完全互換を保証する新仕様のコンピュータであるMシリーズを出荷開始して、ガチンコ勝負でIBM機を富士通機にリプレースさせていく戦略に転換していた。コストパフォーマンスと国内サポート力で勝負に出たのである。
この戦略が功を奏して、日本国内では富士通がIBMを抜いてトップシェアに躍り出た頃である。