私のルーツ


私のルーツ
1954年/夏
更新:2023年7月26日(水)
 
私が生まれたのは、1954年(昭和29年)の夏。生誕地は福岡県福岡市の西エリア(現早良区)にある昭代町という所、当時の母の実家である。実家の応接間で、お産婆さんに取り上げられたそうである。母子手帳に依ると、体重は3,500gだったとか。現在の体重の1/20である(笑)。
 
私の父母は、共に徳島県の生まれであるが、福岡の地で出会い、福岡の地で結婚したそうである。私は兄、姉、私の三人兄姉弟である。
 
父は、現在の地名で言うと徳島県阿南(あなん)市新野(あらたの)町の生まれであり、生家は、下の写真のとおり、多分、農家だったのだろうと思う。
父は、六男三女の五男坊であったが、子供の頃に、当時子供がいなかった母方の叔母夫婦(同県海部(かいふ)郡由岐(ゆき)町)のところと養子縁組して叔母夫婦の子供になっている。それが、現在の私の「姓」である。珍しい姓であるが、摩須(ます)と言う。
父は、由岐町木岐(きき)の木岐尋常高等小学校(現在の中学相当)を卒業したあと、秋田青年学校(兵庫県)、大津陸軍少年飛行兵学校(滋賀県)、宇都宮陸軍飛行学校(栃木県)と進み、戦地(南方戦線(マレー))に出征している。
終戦後は、東南アジア方面の日本軍兵士11万人が集められたレンパン島(インドネシア領)にて、復員許可が出るまでの約1年を過ごした後、1946年(昭和21年)の6月に帰国。
父は、漁業に携わる事にした様であり、徳島県出身者も多く集まる遠洋漁業の基地・福岡(博多港)の方に出て来た様である。
 
因みに、「摩須」という姓については、次のような話がある。勿論、真偽は分からない。確かめる術(すべ)が無いので。
 
私は、1977年(昭和52年)4月に富士通に就職し、京浜地区で仕事に従事したあと、1983年(昭和58年)8月に転勤で静岡県東部に移って来たのだが、1987年(昭和62年)4月に結婚し、その年の夏に今の自宅(中古住宅、静岡県三島市)を購入した。その家の玄関の位置が、家屋(平面図)の中心点から見て鬼門(きもん)の方角(北東)に少し掛かっていたので、地元であるカミサンの実家が懇意にしていたお寺(浄泉寺 静岡県駿東郡長泉町)のご住職にお願いして鬼門除けの祈祷(きとう)をして戴いたのだが、祈祷が済んだ後に、ご住職から「祈祷中に、摩須家のご先祖様達が私の周りに沢山集まって来ましたよ。摩須家は氏族だってねぇ」と言われたのである。勿論、初耳であった。
その時は、それだけの話であり、時の過ぎゆくままに、ご住職の話も忘れていたのだが、その後、何年も経過したある日に、この話を思い出させる事象に遭遇したのである。
数年後、パソコン、インターネットが一般家庭にも普及し始めた頃に、我が家でもPCを購入する事となったのだが、とある休日に面白半分で「摩須」という文字列をインターネット検索したところ、漢字だらけの文章で、文章中に「摩須老女(ますのいらつめ)」という文字列が含まれた文章がヒットしたのである。この文章は、古事記の一節であった。
この「摩須老女」とは、”摩須氏の女”とでも言う様な意味らしく、更に調べると、丹波の国(現在の丹波地方ではなく、日本海側の丹後半島辺り、現在の京都府京丹後市(久美浜町)辺り)の氏族であった丹波川上摩須良王(ますらおう)の娘である事が分かった。この女性は、四道将軍の一人である丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の妻となり、二人の間に生まれた日葉酢媛命(ひばすひめ)が、11代)垂仁(すいにん)天皇の皇后となったそうである。
この、丹波川上摩須良王と我が家(摩須家)が繋がっている事を示す証拠など何もないのだが、私は、自宅の「鬼門除け」祈祷の際にご住職から「摩須家は氏族だってねぇ」と言われた事もあり、勝手に丹波川上摩須良王が私のご先祖様だと思い込んでいる。
 
なお、上の方で書いたとおり、私の父は母方の叔母夫婦(摩須家)の養子となっているので、養父(摩須家)とは血縁関係が無い事は分かっているが、そもそも「家(家系)」とは何かと考えた時に、家(家系)を継いだ人の「血」の繋がりでは無いと私は思っている。「家(家系)」を絶やさないために、養子縁組してでも「家」を継いで貰う事は昔から行われている訳であるから、その事から考えても、「家の繋がり(家系)」というのは、「血統」の繋がりとは違う別の要素があると言う事である。
それは何かと言うと、「血統」と言う様な物質的・生物学的な繋がりではなく、同じ「家」を継いで守って行く魂(霊)という精神的な繋がりであると私は思っている。
そういう観点からも、肉体と言うモノは「」が宿る単なる「(うつわ)」に過ぎないと私は思っている。肉体的には、遺伝子の働きにより、外形や体質、性格が継承される事はあるのだろうが、単にそれだけの事であり、肉体と言うモノは、誕生してから寿命が尽きて土に帰るだけの物質(が宿るための仮の宿)に過ぎないと思っている。
まあ、例えて言うならば、肉体魂(霊)の関係は、位牌と、位牌というに宿る魂(霊)の関係の様なものである。位牌を作っても、入魂しなければタダの「位牌という作品(物体)」に過ぎず、位牌の作者が同じならば、作品としての位牌も作者のクセ等が繁栄されて似た形状になるのだろうが、単にそれだけの事である。位牌に入魂されるからこそ、位牌としての意味が生じる訳である。
同様に、肉体側から見れば、霊が宿っているから生物として意味がある訳であり、霊が抜けた肉体は遺体(物質)そのものである。親子で顔が似ているとか性格が似ていると言ったところで、それだけの話であり、深い意味はないと私は思っている。魂(霊)と言うモノは、輪廻転生(りんねてんしょう)するものであり、各時代の転生先の家系の一員として(肉体では無く)魂が繋がっているからこそ、我が家(摩須家)の鬼門除け祈祷の時に、とは血縁関係の無い摩須家のご先祖様(氏族)と我が家が、ご住職の中でリンクして集まって来られたのだと思っている。
もう一つ言うと、魂(霊)の転生先の家系は、その時々の転生先によって変わると言う事である。私自身に宿っているも、現在は「摩須家」の一員である男性(私)の肉体に宿っているが、一つ前の転生先は、多分、全く別の家系の肉体だろうと思う。日本人かどうかも不明だし、男か女かも不明、何年前かも不明である。過去に余程悪い事をしてない限りは「人間」ではあろうと思うが(笑)。
因みに、肉体に寿命がある様に、魂(霊)にも寿命があり、無限に輪廻転生を繰り返す訳では無いらしい(ある方より、魂(霊)の寿命は10万年弱と伺っている)。
 
【2023/7/26追記】
現在、鍋島直亮さんの書籍「真相追究 物部氏と古代日本」を読んでいる所であるが、物凄い内容である。真実の歴史(人類史)を明らかにしてくれる世界初の書籍である事は間違い無いと私は思う。何しろ、世界中で、過去の真実(記録など残っていない歴史の真実)を確認できる特殊能力と、真実の歴史(國體ワンワールド史観に基づく真実史)に関する深い造詣の両方を兼ね備えているのは、恐らく、現在では世界中で鍋島さんしかいないと思うので。
國體ワンワールド史観の事を知っている人ならば、地球人類の種別として「イシヤ」、「タカス」、「縄文人」、「ケルト人」等の種別がある事を知っていると思うが、鍋島さんは前著「真相追究 蘇我氏と古代日本」にて、四道将軍の一人・丹波道主命が「タカス」である事を解明されている。そして、丹波川上摩須良王の娘が、丹波道主命の妻となり、二人の間の娘・日葉酢媛命が、11代)垂仁天皇の后となり、生まれた皇子が12代)景行天皇である事が書かれている。
そのほかにも、ウバイド皇統(現:日本皇室)が、「タチバナ」を連れてBC1000年に現福岡市(那の津)に移られた事、や、徳島県(阿波)の話(邪馬台国阿波説)、我が家の家系図にも出てくる「海部」という姓と同じ「海部氏」の系図国宝化の話も書かれている。
まあ、そんなこんなで、私のルーツと どういう関係があるのか、全く関係ないのか興味深いところである。(笑)
 
話を戻す。
 
母は、徳島県海部郡三岐田町(後の由岐町、そのまた後(現在)の美波町)木岐の生まれである。父の養家と同じ場所であるが、これは単なる偶然であり、徳島時代の父と母の接点はなく、父と母が出会ったのは戦後の福岡市である。
母は、父親から、同郷と言う事で父との結婚を薦められたと聞いているので、同郷である事が結婚の要因の一つであった事は間違いないと思うが。
母が徳島で生まれた時には、父親(私の祖父)は、懇意にしていた同郷の増田茂吉さんに請われて、単身で長崎県に働きに出ていたそうであり、その後、徳島に残っていた家族も揃って長崎県(五島列島)に渡ったそうである。
その後、増田茂吉さんに呼ばれて、母の父親が先に福岡市に単身赴任し、五島に残った家族も、しばらく経った後から福岡市に移ったそうである。但し、母だけは、「女学校に進学するなら早く福岡に出て来た方が良い」と増田茂吉さんから薦められ、五島での小学校の卒業式を待たずに、増田茂吉さんに連れられて、先に、福岡市の単身赴任中の父親の元に移ったらしい。五島に残った家族が福岡市に移ってきたのは、その数週間後だったとか。
母が、福岡市で入学したのは九州高等女学校(現:福岡大学附属若葉高等学校)である。
 
1948年(昭和23年)、父と母は福岡の地で結婚。父が漁船員として勤めていた徳島水産(株)の社宅が、我が家の出発点となった。
翌年には兄、その2年後には姉が生まれた。
当時、漁船に乗っていた父は、韓国による漁船の拿捕(だほ)事件が起こり始めたのを機に、漁業への従事に見切りを付け、家族を福岡に残して、単身で大阪に働きに出たそうである。京都に父の実兄(生家の長兄)がいたのも、出稼ぎ先として関西を選んだ理由だと思う。
その後、福岡に残っていた母子3人が、大阪の父のところに移り、家族4人で多分、2年強の日々を過ごしたそうである。住んでいた場所は枚方(ひらかた)市だったそうである。
そして再び、家族で福岡に戻って来たそうであり、1954年(昭和29年)に、二男の私が福岡市で生まれた訳である。
 
なお、大阪時代に父が取得した自動車運転免許が、父のその後の人生を大きく変える事になる。1959年(昭和34年)6月に、母の父と共同出資して小型トラック3台で丸徳運送(株)を起業し、その後、自社の経営と並行して福岡地区、九州地区の運輸業界の発展に努めた事が評価され、1990年(平成2年)には黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受章し、夫婦共々、皇居にて天皇陛下に拝謁するに至った。
 
1 父の生家(現:徳島県阿南市新野町月夜)
 
2 戦時中の父
 
3 父母の結婚
 
4 大阪時代の父
  
5 私の誕生


6 私の生誕の地(現在の様子。グーグルマップより)。恐らく、歩いている女性の数メートル奥で「オギャァ」と生まれたと思われる。
 
7 黄綬褒章を受章した父