私の幼少時代(幼稚園入園前) ~暮らし~
時期:1955年頃
更新:2023年5月15日(月)
うちの家族5人が住んでいた家は、母方の祖父の屋敷(敷地)内に祖父が建てた3軒の借家のうちの一つであった。
1階は、和室1部屋(6~8畳くらい)と土間、台所、2階は和室2部屋(3畳、6畳程度)だった様な記憶がある。トイレは濡れ縁の端についていた。勿論、水洗など整備されていない時代だったので、便を溜めて汲み取る方式の昔ながらの便所である。風呂は無くて、祖父の母屋の風呂に入っていた。
当時の私の遊び場と言えば、敷地内の中庭か、表の道を渡って正面の坂道を登った先にある祖原公園であった。あの頃は、公園の事を何故か遊園地と呼んでいた。「遊園地で遊んでくる」といった具合である。
祖父の母屋には、母の長兄家族が同居していたが、長女(私の従姉)が私より1歳上で同年代だったので、毎日、従姉とママゴトをしたり婦人会ごっこをしたり、たまにはお医者さんごっこもしたりして遊んでいた。
祖父所有の3軒の借家のうち、敷地の西側の2階建ての家は私の家族が住んでいたが、南側(国鉄線路沿い)の2軒には、大坪さんという母子家庭の家族と、川添さんという家族が住んでいた。大坪さんのところには兄と同年齢の息子がおり、川添さんのところには姉と同年齢の娘がいた。どちらのお母さんも、とても綺麗な人だったのを憶えている。
大坪さんは、その後、藤間流の日本舞踊の名取(なとり)さんになられて近くの曙町(あけぼのまち)に移転され、日舞の教室を始められたが、つい最近まで、母はそちらで日本舞踊を習っていた。もっとも、ここ数十年は、踊りの稽古と言うよりは世間話をしに行くのが目的であり、お茶とお菓子を食べながら話をして来るのが楽しみの様であったが。
この大坪さんには、私ら夫婦が1987年に結婚して福岡で福岡在住の親戚向けの披露宴をした際に、踊りを披露して戴いたが、踊りの曲の録音テープが、プレイヤーの故障か何かで段々早回りになったのに、それにきちんと合わせて最後まで踊り切ったのには、さすが日舞のお師匠さんだと感心したものである。
私が憶えている当時の父の仕事は、オート三輪というオートバイの後ろに荷台を着けた様な車で、博多港に水揚げされた鮮魚を福岡市内の魚屋さんに配達する仕事であった。当時は、まだ、どの魚屋さんでも自家用車を所有していると言う様な豊かな時代では無かったので、鮮魚の配達という需要もあったのだろうと思う。
時々、オート三輪の助手席に乗って配達に着いていった事もあった。