【書籍紹介】エンペラー・ファイル ~天皇三代の情報戦争~ 徳本栄一郎

【書籍紹介】エンペラー・ファイル ~天皇三代の情報戦争~ 徳本栄一郎
作成:2020年9月4日(金) 晴れ
 
「ウバイド國體ワンワールド」のブログの方にもアップしたが、落合莞爾先生が紹介されていた書籍『エンペラー・ファイル 天皇三代の情報戦争 (著者:徳本栄一郎)』を読んだ。
余りにも面白くて、「一気飲み」ならぬ「一気読み」である(笑)。
 
皇室の内側の実態は、一般国民には全くと言ってよいほど殆ど分からないが、まあ、当然、こういう事(上の本に書かれている事)があって然るべきだろうと思う。
 
憲法で規定されている「象徴」というのは、あくまでも公議政体(国家の統治を(立憲君主国の君主(元首)から)任されている)側の立場からの規定であって、天皇家には二千年以上に及ぶ日本国を治めて来た長い歴史がある訳であり、それは現在も脈々と続いているのである。従って、天皇はお飾りでも何でも無く、日本国の元首なのである。
日本は立憲君主国であるが、この「君主」と言うのは当然ながら、天皇陛下の事なのである。
 
戦後70年以上経った訳だし、そろそろ、占領軍(GHQ)と、それに尻尾を振ってナビいた日本の史学界によって捻じ曲げられてしまった嘘の歴史を正す時が来たのだと思う。
真実の歴史を明らかにし、皇室と国民の関係についても、本来の関係を国民側(特に、私を含め戦後生まれの国民)に再認識させるべき時が来たのではないかと思う。
それが、先帝が生前譲位されて新しい「令和」の時代に引き継いだ意図なのかもしれないし・・・。
 
もしかしたら、「象徴」という憲法の規定を勘違いして、皇室は日本国民の為に存在する日本国政体に属する組織の一つくらいに思っている国民が多いのでは無かろうかと、時々思ってしまう。
例えば、皇位継承権問題への有識者と言われる方々、一般国民の意識がそうであると思わざるを得ない。
「女性にも皇位継承権を認めた方が良い」などと言う議論があるし、平気で口にする国会議員すらいる。勘違いをしているとするならば、皇室に対して大変失礼な事である。皇室典範(?)で規定している皇位継承権とは、あくまでも、憲法で規定する「象徴」の主体(日本国民向けの象徴天皇職とでも言うべき存在)への皇位継承権の事であって、長い歴史を持つ天皇家の中での皇位継承権とは全く別物だと私は考える。
だいたい、他人の家の財産相続の話に外部の人間が口を出す事が無礼千万であるのと同様、日本国民が天皇家のお世継ぎマターに口を出すとは失礼千万だと私は思う。
勿論、「日本国という公議政体向けの政体天皇(象徴天皇)として皇室から選出される方については男性に絞らせて戴きますので、配慮を宜しく」と言う事であれば分かるが、天皇家としての次代天皇を選ぶ際の皇位継承権ルールに対しては、日本という国家は口出しする立場にはなく、皇室内においての皇位継承権に関しては、102代)後花園天皇以降、「大塔宮護良親王の直系男系子孫」と決まっており、今上天皇もこのルールに従っているのだから。
天皇家は日本国の所有物ではないし、そもそも、皇室の方々は日本国民ではない(日本国籍を持っていないと言う意味)と言う事実を知らない国民が多いのではないかと思う。
自分達と同一レベルで皇室の方々を考えたら駄目ですよ。
 
ついでに言っておくと、天皇は一時期には一人に限るという制約は天皇家のルールには厳密には無いらしい。事実、明治時代には、京都と東京にそれぞれ別の天皇がいた訳だし。
東京の天皇(政体の明治天皇)は、表向きの歴史上は睦仁親王となっているが、本当の名前は大室寅之祐(おおむろとらのすけ)、京都の天皇(國體の明治天皇)の方が本物の睦仁親王(孝明天皇の実子)である。二人とも、大塔宮護良親王の直系男系子孫であり、同じ日(1871年11月17日)に東京の新宮殿(多分、現在の皇居)で、同時並行的に大嘗祭(皇位継承に際して行う宮中祭祀)を挙行している。(参考文献:「ワンワールドと明治日本」208頁)
 
皇室内の皇位継承権ルールでは、今上天皇の子である愛子内親王も、秋篠宮文仁親王も、その子である真子内親王も、佳子内親王も、勿論、悠仁親王も、大塔宮護良親王の直系男系子孫(=父親を過去方向に辿っていけば護良親王に辿り着く子孫)であるから、天皇家としての皇位継承権があるのである。愛子様、真子様、佳子様は、単に、日本国民向けの政体天皇(象徴天皇)には現法律上なれないと言うだけの事である。 と私は認識している。
 
話が横道に逸れたが、この本を読んで、これまで聞いてきた落合莞爾先生のお話が、作り話でも何でもなく、真実であった事を再確認できた。
 
例えば以下。
 
■CIAを凌ぐと言われるハプスブルク家の情報ネットワーク
 
・最近は、大東社のネットワークと落合先生は表現されている。
 
・國體参謀のトップだった上原勇作元帥の「草」として動いていた吉薗周蔵が、上原の指示により、欧州に渡り、AB0方式の血液型に関する研究結果を日本に持ち込んだ(これが、現在の医学界の血液学のベースになっている)が、その時に、吉薗周蔵を敵国だったオーストリアのウィーン大学のラントシュタイナー教授に引き合わせる手引きをしたのが、大東社のネットワークである。
なお、ABO(オー)方式でなくAB0(ゼロ)方式と書いたのは、実は、こちらが正しいから。誰かが0(ゼロ)をO(オー)と読み間違えて、それ以降、日本ではABO方式という呼び方になってしまったらしい。
 
・日露戦争において、明石元二郎大佐が、ロシアの後方攪乱をした時に利用したのが大東社のネットワークである。明石元二郎は、玄洋社のメンバであり、國體参謀である。
 
何故、天皇家とハプスブルク家に繋がりがあるのか? それは、どちらも大塔宮護良親王の直系男系子孫(親戚)だから。
 因みに、ハプスブルク系統なのかベネルクス系統なのかは知らないが、昭和天皇も現上皇も今上天皇も欧州大塔宮(欧州に渡った護良親王の直系男系子孫)の血統である。
  
大東社の情報ネットワークと思われる話、昭和天皇、田中清玄、ハプスブルク家オットー大公、ほか、この情報ネットワークを介して、昭和天皇にもたらされた政体経由の情報を凌ぐ独自の国際情報、等々、興味深い話満載の内容であった。
 
■田中清玄と昭和天皇
 
・治安維持法で逮捕され11年の獄中生活を終えたあと、出所して三島の龍澤寺の山本玄峰老師の下で修業したそうであるが、山本玄峰といえば、玉音放送の”耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・”というあの一節を書いた人であり、当時の國體参謀総長だった人である。確か、「絶対に退位をしてはいけない」という山本玄峰老師のメッセージを昭和天皇に伝えるために謁見したのが田中清玄だったと思う。
 
今上天皇が、皇太子時代(1983~1985)に英国留学した時の事を記した回顧録「テムズとともに」が、元駐日英国大使だったヒュー・コータッツィ氏により英訳されて2006年に英国で出版されたそうであるが、実はそれ以前に、皇太子帰国の3年後(1988頃)に在外研修生として渡英してオックスフォードで学んだ一人の日本人女性が、「テムズとともに」を読んで、英訳を考えたそうである。
書籍に書かれているその女性の名前を読んだ時には、思わず、目頭が熱くなりそうだった(笑)。さて、誰でしょう?
 
以下、参考までに、本書籍の目次を引用しておく。
 

エンペラー・ファイル ~天皇三代の情報戦争~ 徳本栄一郎
プロローグ
きっかけは、バーナード・クリッシャーとの偶然の出会いだった。彼から託された二〇本の録音テープ、それが歴史の扉を開ける鍵となった。
- バーナード・クリッシャーとの出会い
第一章 「真崎テープ」の中の昭和天皇
長年、宮中の通訳を務めた真崎秀樹は生前、クリッシャーに天皇と世界の要人とのやり取りを明かしていた。そこからは共産主義への警戒を隠そうともせず、国際情勢のインテリジェンスを求めた天皇の姿が浮かんだ。
- 国際共産主義を警戒した昭和天皇
- D・ロックフェラーと中ソ封じ込めを議論
第二章 田中清玄がもたらした国際情報
「東京タイガー」の異名を持つ国際的フィクサー・田中清玄。終戦直後、昭和天皇に単独謁見した彼は、皇室の陰の藩屛として共産党に戦いを挑んだ。そして入江相政侍従長を通じ、欧州の名門ハプスブルク家のインテリジェンスを密かに届けていく。
- 「山師」か「愛国者」か
- 「田中清玄氏、聖上に謁す」
- 都ホテル一二三六号室の密会
- CIAをしのぐハプスブルク家のネットワーク
- 自民党政権の軍拡を批判した昭和天皇
第三章 天皇制を守った人たち
占領期、天皇制維持のため米国で暗躍した「ジャパン・ロビー」があった。その中心メンバーが日系二世のケイ・スガハラだ。元情報機関員の彼は、天皇側近と水面下で連携し、昭和天皇の初訪米を支援するなど日米関係の黒子役を担う。
- 天皇制の存続を訴え、天皇訪米を成功させる
- 改竄されていた昭和天皇のインタビュー記事
第四章 皇太子明仁の「ローマの休日」
昭和天皇が、わが子の家庭教師にバイニング夫人を選んだのはなぜか。訪米中、ロックフェラー家の配慮で生まれた「自由」な一日を、皇太子はどう過ごしたのか。自分の意思で行動することを学んだ皇太子は、やがて平成の世の天皇となる。
- ロックフェラー家別荘での「自由な」一日
- 昭和天皇はなぜバイニング夫人を選んだのか
- 東京裁判終盤に流れた天皇退位の噂
- 皇太子、マッカーサー元帥に会う
第五章 天皇明仁「慰霊の旅」と「生前退位」
初めて「平民」出身の妃を迎えた皇太子は、即位後、ともに手を携えながらかつての激戦地を訪れ、犠牲者に祈りを捧げる。そして自分の意思で行動する天皇が最後に決断したのが、明治以降、制度から消えていた「譲位」だった。
- 貿易摩擦真っ只中の皇太子訪米
- 「慰霊の旅」のはじまり
- 「生前退位」と旅の終わり
第六章 浩宮のオックスフォード留学
独自の情報網を持ち、自分の意思で行動する立憲君主 - 戦後、昭和天皇が抱いたであろう新たな天皇像は、平成を経て令和に受け継がれた。新天皇となった浩宮は、若き日の英国留学で一体、何を学んだのか。
- プリンス・ヒロ留学受け入れの「配当」
- ジグソー・パズルを埋める力
- 昭和、平成、令和と続く歴史の石積み
エピローグ
「インテリジェンス」、「自分の意思」、そして「歴史のジグソー・パズル」 - この三つの言葉こそ、三代にわたる天皇家の戦いの物語の象徴だった。
- 二一発の礼砲
謝辞
主要参考文献