【國體】世界國體天皇 堀川辰吉郎(その一)


【國體】世界國體天皇 堀川辰吉郎(その一)
初稿:2021年7月15日(木) くもり、時々、晴れ
更新:2021年10月8日(金)
 
ネットを眺めていたら、面白い動画を見つけた。戦略思想研究所)中森護代表が語る動画である。以下。
 
 満州国と天皇家の隠されたつながり|中森護
www.youtube.com
 
この動画の中に出て来る人物、「満州国の建国を決めたのはこの人だ」と中森さんが言われている人物、それが堀川辰吉郎(下の写真)である。
 
堀川辰吉郎
 
落合莞爾先生國體ワンワールド史観に関わりを持っている人なら、堀川辰吉郎の事は多分知っていると思うが、表の歴史しか知らない殆どの日本人にとっては聞いた事がない名前だろうと思う。Wikipediaを見ても、ペテン師扱いされているくらいの存在なのだから。
 
しかしながら、中矢伸一氏の著書「日本を動かした大霊脈」には、國體関連の話こそ出て来ないものの、偉大な実績を残された真実の堀川辰吉郎像が描かれていると思う。
 
上に挙げたWikipediaには、『明治天皇の落胤とする風説と書かれているが、確かに風説であり、堀川辰吉郎は明治天皇の落胤では無い。堀川辰吉郎自身も、自分を「明治天皇のご落胤」だとは決して発言していない。それが真実だからである。
 
堀川辰吉郎の娘である国際政治評論家の中丸薫さんが、「自分の父・堀川辰吉郎は明治天皇の子だ」と言われているそうであるが、どうやら中丸薫さんご自身も真実をご存じないらしいのである。但し、中丸薫さん自身が ご存じない真実とは、父親である堀川辰吉郎の事ではなく、堀川辰吉郎の父親と言われている明治天皇の方の真実である。
 
実は、122代 明治天皇自身が、表向きの歴史で言われている『121代 孝明天皇の皇子・睦仁親王』では無いのである。そして、堀川辰吉郎は、本物の睦仁親王の皇子なのである。だから堀川辰吉郎は明治天皇の皇子では無いのである。
この事(睦仁親王≠明治天皇)を中丸薫さんは知らないらしいのである。だから、自分の父親は睦仁親王の皇子なのに明治天皇の皇子だと勘違いしている訳である。
 
中丸薫夫妻(夫は、俳優だった故・中丸忠さん)は、和歌山の落合莞爾先生宅に泊まった事もあるそうであるが、落合先生が、そういう話(薫ちゃんは明治天皇≠睦仁親王だと知らなさそうという話)をされていた。
 
因みに、122代 明治天皇は、即位前は周防・田布施の地(現在の山口県熊毛郡田布施町辺り)で奇兵隊の一員であった大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人なのである。正しくは大室寅助(おおむろとらすけ)と言うらしいが。
この大室寅助も、実は、正統な皇位継承権者だったのである。
 
【補足1】
ここで、日本の天皇について少し説明しておく。古来より、天皇(当時は「天皇」という呼び方は未だ無かったが、ここでは説明のために敢えて「天皇」という言葉を使う)は、国内統治(行政、軍事)を担当する天皇と、民族・文化・風土・宗教など国としての在るべき姿(國體)の護持+「國體黄金ファンド」の管理運用を担当する天皇の二人が分業していたらしい。落合莞爾先生は、便宜的に、前者を政体天皇、後者を國體天皇と名付けた。
初代 神武天皇(イハレ彦)の時はそうでなかったが、二代目になると、イハレ彦の第一皇子(神八井耳命かむやついみみのみこと)が國體天皇、第三皇子(かむぬなかわみみのみこと、2代 綏靖(すいぜい)天皇)が政体天皇を担当したそうである。
 
明治維新後の天皇は、國體天皇が本物の睦仁親王であり、政体天皇(122代 明治天皇)が大室寅助であった。二人は、即位前の一時期、京都堀川御所(京都堀川にあった水戸家の菩提寺・本圀寺(ほんごくじ)の境内に、徳川斉昭によって秘密裡に造営された國體天皇用の御所)にて、偽装崩御された121代 孝明天皇と共に過ごし、帝王学を学ばれたとか。そして、二人は同じ日(明治4年11月)に皇居にて大嘗祭を挙行しているので、皇室サイドとしては、実は二人とも正式な天皇なのである。
  
現在も続いている皇室の皇位継承権のルールは、1330年代の南北朝時代に、96代 後醍醐天皇が護持僧の醍醐寺文観とともに策定したものである。具体的には、
  
「後醍醐天皇の皇子である大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王の直系男系子孫【補足2】のみが皇位継承権を持つ」
 
と言うルールである。
そして、このルールは、明徳の和約による南北朝合一のあとの102代 後花園天皇(1428年~)から施行され、今上天皇(126代)に至るまで続いている。さらにこのルールは、表向きの天皇(政体天皇)だけではなく、裏の天皇(國體天皇)にも適用されている。
 
國體天皇と政体天皇の各在位期間は別々だが、堀川辰吉郎が睦仁親王から引き継いで國體天皇だった期間は、政体天皇が123代 大正天皇~124代 昭和天皇の時代だったと思う。
更に、堀川辰吉郎は第二次世界大戦当時には日本を離れて、世界國體天皇としてハプスブルク家に入っていたそうである。
 
因みに、ここで言う皇位継承権ルールは、皇室内のルールであり、日本が公議政体となった明治以降の大日本帝国憲法や日本国憲法(現在)での「天皇」の規定とは関係ないし、日本国政体側(日本政府、日本国民)が口を挟む事でもない。
皇族の方々には日本国籍はなく、従って、日本の憲法や法律は皇族には適用されないため、天皇の日本国との関わり方を「象徴」という形で日本国憲法で規定し、皇族の方々の日本国での各種規定(法律相当)を皇室典範や皇室向けの法律で規定しているものと私は理解している。
 
【補足2】
護良親王の「直系男系子孫」とは、自分の父親、その父親、そのまた父親、・・・というふうに、父親を過去に辿って行けば護良親王に辿り着く子孫と言う意味である。皇位継承権を持つ子孫自身の性別は問わない。現に、江戸時代には女性天皇もいた。ただし、女性天皇の皇子は、父親も護良親王の直系男系子孫である場合(即ち、護良親王の直系男系子孫同士の男女が結婚した場合)を除き、護良親王の直系男系子孫では無くなるから皇位継承権は無い。
秋篠宮文仁親王の内親王である眞子様、佳子様も、護良親王の直系男系子孫であるから、政体の法律(皇室典範)上はともかく、皇室内の皇位継承権ルール上は、お二人とも皇位継承権を持つのである。
なお、今上陛下の内親王である敬宮(としのみや)愛子内親王は、眞子様、佳子様とはちょっと事情が異なるらしく(ちょっと、ここでは書けない)、皇位継承権は、・・・。
因みに、中丸薫さんの父親は堀川辰吉郎、その父親は睦仁親王と続き、最後に護良親王まで辿り着くし、落合莞爾先生(本名:井口莞爾)も、父親、その父親と辿って行くと、二代目・井口左近に辿り着く。二代目・井口左近の父親は護良親王であるから、結局、落合莞爾先生と中丸薫さんは、共に護良親王を起点とする直系男系子孫であり、皇室内ルールとしての皇位継承権があると言う事である。勿論、お二人は遠い親戚という事である(笑)。
 
話を大室寅助に戻すが、大塔宮護良親王の第一皇子であり、父・護良親王の命により周防国に派遣されていたのが興良(おきよし)親王であるが、明治天皇となった大室寅助は、興良親王の直系男系子孫なので、皇位継承権があったのである。
 
それから、睦仁親王については、これまで121代)孝明天皇の皇子とされて来たが、つい数ヶ月前に、落合莞爾先生が、そうでは無かったと訂正された。孝明天皇には皇子がいなかった事が分かったそうなのである。
 
実は、118代)後桃園天皇に皇子がいなかった事から、皇位継承者として、閑院宮系(師仁もろひと親王)と伏見宮系(貞敬さだゆき親王)の両候補のうち、閑院宮師仁親王を選んだが、その際に、閑院宮血統の天皇は3代までと言う話が付いていたらしいのである。
これは私の推測であるが、閑院宮師仁親王(光格天皇)の父親である閑院宮典仁(すけひと)親王は、ベルギー王室の血統であり、ベルギーから日本に渡ってこられて閑院宮家の籍に入られた方なので、後桃園天皇の後継天皇を決める際に、ベルギー王室血統の天皇は以降の3代までと予め条件を付けていたのではないかと思う。
そして、119代)光格天皇(師仁親王)、120代)仁孝天皇、121代)孝明天皇と、閑院宮血統(ベルギー王室血統)の天皇が3代続いたので、孝明天皇に皇子がいてもいなくても、閑院宮血統(ベルギー王室血統)の天皇は孝明天皇までだった様である。結果的には、孝明天皇の後は、大室系血統の122代)明治天皇、123代)大正天皇と続いている。
124代)昭和天皇は、再び欧州大塔宮(ベルギー王室)血統である。大室血統の天皇は2代までと決められていたそうなので、大正天皇の後は、ベルギー王室血統の昭和天皇が即位したのだと思う。多分、この時期には、既に皇室血統バンク(前天皇の直系血筋が途絶えた場合の傍流血統をスペアとするもの)をベルギー王室血統に移行したのではないかと思う。現在は、皇室血統バンクはベルギー王室血統に一本化したと言う話を伺っている。
120代)仁孝天皇と、121代)孝明天皇は、共に偽装崩御した後に血統的故郷であるベルギーに戻られたそうであるが、そのどちらかの直系子孫(孫か曾孫あたり?)が裕仁親王(昭和天皇)だそうである。更に、昭和天皇と良子皇后の第一皇子(誕生は秘匿されているが、現上皇様の兄上)は生後すぐにベルギーに移られたそうだし、秋篠宮家の悠仁ひさひと親王も実はベルギー生まれで、ベルギーから来られたそうである。
 
補足しておくが、欧州大塔宮血統(ベルギー王室、オランダ王室)、ハプスブルク家血統も、大塔宮護良親王の直系男系子孫の血統であるから、皇位継承権がある。
当時の経緯を簡単に説明すると、後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮護良親王は、表の歴史上は、中先代の乱の最中に鎌倉幕府に幽閉され、混乱の中、足利直義の命を受けた淵野辺義博により殺害された事になっているが、実は殺害されていない。淵野辺義博の手引きにより鎌倉の浜から小舟で対岸の房総半島に逃げ、陸路で奈良・西大寺に入っている。
幕府幽閉の前に紀伊・調月荘にて井口左近の娘との間に出来た男子が3人いたが、1番目が北朝)光厳上皇の皇子として皇籍に入った興仁親王(後の北朝3代 崇光天皇)、2番目が母方の祖父の名前を嗣いで2代目井口左近となった男子(落合莞爾先生の先祖)、3番目の男子が渡欧し、その孫か曾孫に当たる男子がハプスブルク家に入り、フリードリヒ三世となっている。偽装殺害のあと奈良・西大寺に入ってからの子供は、当然、表の歴史には残っていないが、その中の皇子、皇孫達が欧州アルザスに渡り、その後、ベルギー王室、オランダ王室に入っている。
従って、ハプスブルク家、ベルギー、オランダにも、護良親王の直系男系子孫が現存している訳である。
 
話を近代の日本に戻すが、実は、大正天皇には皇子は一人も生まれなかったそうであり、表向きの4人の皇子は大正天皇の実子では無いそうである。昭和天皇は欧州大塔宮(ベルギー王室)血統、高松宮宣仁親王の父親は國體天皇・堀川辰吉郎である。秩父宮雍仁親王三笠宮崇仁親王の父親は何方かを伺っていないので私は知らない。
高松宮様が父・堀川辰吉郎を嗣いで國體天皇となられ、薨去後に妃殿下だった喜久子妃が代理を務められたあと、現在は新しい國體天皇の代になっているとの事。何方かは秘中の秘である。
落合莞爾先生が、皇室の真実の歴史を研究する事になったキッカケは、國體天皇代理であった喜久子妃殿下の時に、同じく護良親王の直系男系子孫だった落合先生に白羽の矢が立ち、以降、皇室からのジグゾーパズルのピース的な断片情報を伝授して貰いつつ、落合先生独自の調査・研究・洞察を続けて、真実の歴史を解明され続けている訳である。決して、答えを直接伝授される事はなく、落合先生がパズルを解いた結果(洞察結果)を持って國體天皇に仕える舎人経由で國體天皇にお伺いを立てた時に、「OK、NG」の意志表示がなされるらしい。
 
話を睦仁親王の父親が誰かに戻すが、上の話のとおり閑院宮血統は3代で終わりなので、孝明天皇の表向きの皇子とされていた睦仁親王は、同じく皇位継承権を持つもう一つの血統である永世親王家伏見宮の血統ではないかと言うのが、落合莞爾先生の洞察である。
 
話を一番初めの堀川辰吉郎に戻す。
 
少し内容が増えてしまったため、堀川辰吉郎の國體天皇としての実績については、色々と調べてから(その二)で書くこととし、(その一)では、上に書いた書籍に出て来る表向きの堀川辰吉郎のエピソードを書くことにする。
 
彼は、子供の頃に、福岡の玄洋社)頭山満に預けられ、福岡の街で育ったらしい。とにかく、豪快・破天荒な性格であったらしく、子供の喧嘩に口を出したヤクザの親分宅に放火すると言った具合である。
 
上に書いた書籍の中から、彼に関する話を以下に幾つか列記するが、まさに世界國體天皇と言える程の器だった事が窺える。
 
●少年時代は福岡で過ごしたが、悪さを繰り返すたびに転校するものの、転校先が尽きてしまい、やむなく東京の学習院に転校。そこでも、当時の学習院長だった田中光顕の手を焼かせる存在だった。戸籍上は、井上馨伯の血を受けて生まれた事になっている。
 
【訂正】2021/10/8
当時の学習院長は、乃木希典と書いていたが、田中光顕(伯爵)の誤りだった。
「洞察帝王学講座・改2681」の10月号にて、落合莞爾先生より誤り指摘があった。参考文献「日本を動かした大霊脈」の著者である中矢伸一氏の間違いである事を落合先生が指摘された。乃木希典が学習院長だった時代と、堀川辰吉郎の在学時代は10年ほどのズレがあるそうであり、著者のウラ取りが杜撰だと落合先生が言われていた。
 
●支那の孫文の片腕として、孫文と共に戦火をくぐり抜け、支那の革命成功のために命を張って奔走。
●奉天の世界紅卍字会の名誉会長に推挙され、日本の軍閥と争いながら、日中の架け橋となって平和運動に尽くした。大本教の出口王仁三郎とも深い繋がり。
蒋介石鳩山一郎首相とも親交
●終戦直後、GHQに逮捕されるが、取り調べは途中で立ち消えとなり、GHQ側の丁重な詫びとともに釈放された
●世界各国を周遊し、各国の支配者等と親交を結ぶ。支那では毛沢東、劉少奇、宋慶齢(孫文の未亡人)、朱徳。台湾の蒋介石、米国のルーズベルト大統領、同夫人(夫人とは年来の親友)、英国のジョージ五世、チャーチル首相、ソ連のスタ-リン首相、インドのプラサド大統領、ネール首相、
●国内では、高松宮宣仁親王(実は、堀川辰吉郎の実子)、三笠宮、久邇宮朝融王(香淳皇后の兄)、鳩山一郎、吉田茂、岸信介、大野伴睦と親交。
●皇居には、いつでもフリーパス(宮内庁事務官の証言)
●放浪生活数十年の間に、世界各国で50人に近い妻を娶り、大勢の子供を作った。
●彼の正妻は九州の炭鉱王・貝島太助の姪。息子達の多くは各国で一流の経営者。娘達の嫁ぎ先は、富士製鉄社長・永野重雄の長男、支那財閥・張群の長男など。
●張作霖と親交、息子の張学良とは兄弟の契りを交わした。(実は、張学良は張作霖の実子で無いらしい。落合先生談)
●戦後の昭和25年、尾崎咢堂(行雄)翁の依嘱を受けてジュネーブの世界平和連邦会議に出席、堀川辰吉郎の演説が圧倒的人気を得て、「サムライ・ホリカワ」の異名を轟かせた。以下は、演説の内容。(書籍より引用)
~引用開始~
「私の叫ぶ世界平和は、皆さんと違って真実だ」
 
会場をうずめる各国代表をみまわしながら、辰吉郎は、声高らかにこう叫ぶ。
 
「なぜなら、私は世界中の多くの女性と関係した。そのため私の落し胤が、中共にもソ連にも、そしてアメリカにもフランスにも、その他二つの対立する世界の両側の至るところに、すくすくと成長しているのだ。・・・・・だからもし、二つの対立の緊張が破れて、世界各国が相争う時は、私の血が互いに殺し合わなければならない。
故に私の平和への願いは、人類の血をかけた願いなのだ。いわば人類の声だ。そのためにも、人類は一つでなくてはならないのだ。」
 
唖然とした表情で聞いていた聴衆は、一瞬の静寂の後、湧きかえるような拍手と歓声を辰吉郎に送ったという。

~引用終了~
 
●辰吉郎の娘の一人・芳子は、終戦時に双子の姉妹を抱いてマカオを脱出し帰国して辰吉郎のもとに戻ったが、その後、来日中のカーペンター博士と知り合い結婚。ところが、家族で米国に渡る際に、前夫の双子の娘達の入国許可が当時の移民法に抵触して認められないという問題が発生。この親子の生き別れの話が米国政財界の上層部に伝わり、ルーズベルト元大統領の夫人が陣頭に立って「非人道的な移民法は廃止せよ」と運動開始し、その二年後に目出度く移民法改正案が成立して、引き離されていた双子の娘達が日米養子縁組の適用第一号となり、米国に迎え入れられた。