【國體】天皇のお話 ~江戸時代から昭和時代にかけて~


【國體】天皇のお話 ~江戸時代から昭和時代にかけて~
2021年11月19日(金) 晴れ
 
延暦13年10月22日(794年11月18日)、第50代・桓武(かんむ)天皇が都を長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区あたり)より平安京遷都した。
 
以来、2021年の現在まで、京都は日本の「都(みやこ)」である
 
ただし、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、東京も新たに「都」として定められ(奠都(てんと)され)、明治2年(1869年)に「政府」が京都から東京に移されたため、日本の首都機能は東京が引き継いでいる。
即ち、2021年現在、日本の「都」は、京都・東京の東西両京である。
 
【補足】奠都(てんと)とは
奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいう。
明治天皇が東京に移った際は、京都を都として残す形をとり、遷都(せんと)ではなく東京奠都が行われた。
(Wikipediaより)
  
◆明治天皇(122代)は、孝明天皇(121代)の皇子・睦仁親王では無い
 
明治天皇は、表の歴史上は、孝明天皇の皇子である睦仁親王が践祚(せんそ)(≒即位)した事になっているが、実際は別の人が践祚している
 
即ち、践祚して明治天皇となったのは、周防国(現:山口県熊毛郡田布施町あたり)に住んでいた大室寅之祐(おおむろとらのすけ)(通名:大室寅助)である。
この点は結構知れ渡っているので、知っている人も多いと思うが。
 
大室寅之祐は、一部では奇兵隊の天皇とも呼ばれていたそうであるが、周防時代には奇兵隊の隊員だったそうである。
その大室寅之祐が京都に呼ばれ、堀川御所(京都堀川通りにあった水戸家の菩提寺・本圀寺(ほんごくじ)の境内に、水戸・徳川斉昭が秘密裡に建造した別目的の御所)において、本物の睦仁親王と一緒に帝王学を学び、その後、同じ日(1871年(明治4年)11月17日)に、東京の新宮殿(多分、現在の皇居)で、同時並行的に睦仁親王大室寅之祐大嘗祭(だいじょうさい)(皇位継承に際して行う宮中祭祀)を挙行して、二人とも天皇を践祚している
 
日本国の公儀政体の最高位となる表の天皇(落合莞爾先生の命名であるところの政体天皇)は122代・明治天皇となった大室寅之祐、外交と國體黄金ファンドの管理権を持つ裏の天皇(落合莞爾先生の命名であるところの國體天皇)となったのが睦仁親王である。
 
因みに、大室寅之祐の出身地である田布施の地は、岸信介元首相、佐藤栄作元首相の出身地であり、安倍晋三元首相も岸信介元首相の孫であるから、母方のルーツは田布施である。
これは偶然かと言うと、そうではない。
 
平安・院政時代の「北面の武士」であった佐藤義清(のりきよ)が、出家して西行法師となり、歌人として全国行脚したという建て前で、実は、國體奉公衆として全国に佐藤甚兵衛ネットワークを構築していったのだが、周防国田布施の地に構築した甚兵衛ネットワークの拠点の主である佐藤家が、岸(旧姓:佐藤)信介、佐藤栄作兄弟のルーツであり、
大塔宮護良親王の皇子・興良(おきよし、おきなが)親王が、父・護良親王の命により、半島渡来人・大内氏を慕って渡ってくる朝鮮民の基地的存在になっていた田布施の地の治安維持の目的で派遣されたのだが、その興良親王の一族を保護する様に指示を受けたのが、田布施の佐藤甚兵衛ネットワークだったのである。
 
《余談》
先日来、日本国内のマスメディアが何かと騒ぎ立てている眞子様の夫・小室圭さん。
実は、彼は、苗字こそ違うが、大室寅之祐の血統なんだそうである。落合莞爾先生が言われているのだから、情報源は皇室筋である。
そうである以上、母親の金銭問題で騒がれているのには、勿論、裏(の目的)があると言う事である。「ある事」から国民の目を逸らせるためである。そのために、小室圭さんは「汚れ役」を意図的に被って演じているのである。「ここまで出来るのは、彼(小室圭さん)も帝王学を学んだのだろう。」と落合先生が仰っていた。
 
では、国民の目を逸らせる「ある事」とは何か? 勿論、皇室関連の事である。
インペリアル・アイズの最終月である2021/9号のQ&Aコーナーで、この問題について自分なりに洞察した会員の方がいて、洞察に対する所見を落合先生に求めたのだが、落合先生からの答えは、たったの二文字であった。
 「正解」
 
◆「江戸後期~昭和」についての天皇の血統(皇統)について
 
2021年6月頃の落合先生の話によると、
「最近、孝明天皇には皇子がいなかったという話を聞いた(勿論、皇室筋から以外は無いでしょう)」との事なので、本物の睦仁親王自身も孝明天皇の実子ではないかも知れない
さらに、同じ時の落合先生の話の中で、「閑院宮系統の天皇は3代でお返しするという話になっていたので、睦仁親王は、閑院宮血統ではなく、伏見宮血統かも知れない」とも、落合先生は言われていた。
 
私の推測であるが、「閑院宮系統の天皇は3代でお返しする」という話は、118代・後桃園天皇(伏見宮血統)に皇子がいなかった事から、伏見宮系と閑院宮系から後継天皇を決める際に、閑院宮血統の師仁(もろひと)親王を後継天皇(119代・光格天皇)と決める際の条件だったのではないかと思う。
 
118代・後桃園天皇(伏見宮系)から、119代・光格天皇(閑院宮系)➪120代・仁孝天皇(閑院宮系)➪121代・孝明天皇(閑院宮系)と、閑院宮血統が3代続いたので、孝明天皇の皇子とされている睦仁親王は、実は、伏見宮血統から連れて来られて、孝明天皇の皇子として皇籍に入れたのではないか? と落合先生は考えたのではないかと思う。
 
その後、落合先生からは、この件に関する新しい話は伺っていないし、「睦仁親王は孝明天皇の皇子」という話をその後も普通にされているので、本当の所は良く分からない。
 
なお、大室寅之祐は、片田舎の周防国生まれとは言え、正統な皇位継承権者であるから、天皇を践祚した事自体は何ら問題ない。
ただ、3代続いた閑院宮血統から即、伏見宮血統に戻すことはせず、122代・明治天皇(大室血統)➪123代・大正天皇(血統不明、多分、明治天皇の実子では無い)と二人の天皇を挟んだ理由は良く分からない。
 
124代・昭和天皇は、話の流れから考えれば、伏見宮血統に戻した結果と言う事なので、伏見宮血統と考えるべきだし、2021年2月の落合先生の話では、「昭和天皇は伏見宮から出した」と言われているので辻褄が合う。
しかしながら、一方では、昭和天皇は欧州大塔宮(ベルギー王室)のご出身であるという事は、これも落合先生から何度も伺っているので間違いないと思う。
 
では、伏見宮血統であり、かつ、欧州大塔宮(ベルギー)血統でもあるという事があり得るのか?
 
これが解けない謎なのである。落合先生ご自身も、その謎は未だ解けておらず、これから考えるとの事であった。
 
補足しておくと、

伏見宮
大塔宮護良親王が、表の歴史上も生存している時期に、紀伊・調月(つかつき)村の井口左近の娘との間に生まれた第一皇子(後の、北朝3代崇光天皇)の子孫が興した宮家(永世親王家)。
欧州大塔宮 大塔宮護良親王が、鎌倉で偽装殺害されたあと、小舟で房総に渡り、陸路で奈良・西大寺に入った後に生まれた皇子、皇孫で、欧州に渡った血統

であるから、普通に考えれば、偽装死前の護良親王の血統偽装死後の護良親王の血統を同時に引く子孫など有り得ないのだが・・・。
 
この件に関しては、私なりに洞察した結果を、インペリアル・アイズの最終号(2021/9)のQ&Aに投稿し、落合先生よりご所見を戴いている。