魂について


魂について
2019年11月28日(木) 未明
 
「魂」について、数日前、竹下雅敏さんの記事を読み、一つ、目からウロコを感じた。
 
記事そのものは、斜め読みしかしていないのだが、ポイントは、魂と言うものは生物だけにあるものではなく、粒子(素粒子)に至るまで魂があると言う点である。
 
読んだ記事は以下である。
 
 人間が見ることで量子の状態が変化するのではなく、量子が“見られた”ことを認識することで、変化する ~粒子のような存在にも、意識と心がある
 
こちらは、上の記事の翌日にアップされた続きの記事である。
 
 量子力学の実験によって「この世に客観的な現実は存在しない」ことが明確になった ~「ひとりひとりが、その人だけの現実を持っている」
 
この記事の中で書かれている以下の文章がポイントの様な気がする。
 
 これが意味するところは、現実が観察によって変化する可能性があることを示す。もっと簡単に言えば、「事実は実際には主観的なもの」といえるのだ。
 
竹下雅敏さんの記事の中では「意識と心」と表現されているが、私のこの記事では、それを「魂」と表現している。
実際には、「意識」、「心」、「魂」は少しずつ違う意味なのかもしれないが、ここでは、細かい事は言わず、で通すことにする。
 
半年くらい前に、ベンジャミン・フルフォードさんの「闇の支配者に握り潰された世界を救う技術【未来編】」という本を読んだ時に、「量子の振る舞いに人間の意識が影響を与える」という文章があり、それに関する実験結果が続いて書かれていたのだが、その事が記憶のどこかに引っかかっていてモヤモヤしたものが残っていた。
シュレーディンガーの猫」という量子力学の世界では有名な思考実験なのだそうである。
 
それが、上の竹下雅敏さんの記事を読んで、魂と言うものは生物だけにあるものではなく、粒子(素粒子)に至るまで魂があると理解した事でスッキリとした訳である。
 
前置きはこのくらいにして本題に入る。
 
私は、最近、と言うものは輪廻転生するものであり、人間の本質(?)は「」である。「肉体が先に在って、そこにが宿る」のではなく、「が先に在って、それがその時々の肉体を借りて宿るのだ」と考える様になっている。だから、人間の「肉体」は、ヤドカリの貝殻みたいなもの、ある時期(人が生まれて死ぬまでの期間。一つの人生)だけに与えられた仮の宿みたいなものであり、それ(「肉体」)に対して死後も執着するのはナンセンスである』と考える様になった。だから、息を引き取って(魂が抜けて、幽体離脱して)火葬されたならば、それ(「肉体」)はただの物質(土)に還るだけだと思っている。
一方で、「魂」は、一旦、天上界に戻り、英気を養ったあとに、再び、別の仮の宿(「肉体」)を借りて別の人間として転生するものだと考える様になった。
勿論、その時々の前世の内容(おこない)次第では、再び「人間」として転生するのか「畜生」として転生するのか、「砂粒」として転生するのか、はたまた、「1素粒子」として転生するのかは分からないのだろうと思う。
 
2ヶ月前に兄が亡くなったのだが、その時の葬儀の際に、導師様(真言宗別格本山「東長寺」のご住職・藤田紫雲さん)が、やはり、人生は仮の宿、涅槃の地に還ると言うような話をお経の中でされていた様に私は感じ、「やはり、そうなんだ」という思いを強くし、斎場から霊柩車で仏様を見送る際の挨拶で、輪廻転生の話を少しした次第である。
 
まあ、私自身がそういう考え方になっているので、私には、宗教、葬儀、納骨、墓地と言ったものには興味がない。仮の宿だったその時々の「肉体」に死後も執着するのはナンセンスだと思うからである。
だから、カミさんには、お墓なんか要らないからね、葬儀もしなくて良いからね、骨も拾う必要は無いので火葬場で全部処分して貰って構わないからねと言っている。
そうは言っても、まあ、残された人が自分の心の拠り所にするために何らかの形(例えば、遺骨、墓など)を残したいと言うのであれば、それはそうしても構わないけど、少なくとも私自身にはそうして欲しいという希望は無いからね、と言っている。まあ、そう単純にはなかなか割り切れないと言うのが人情なのだろうが。
 
まあ、そういう自分自身の事は別にして、自分のご先祖様に対しては、自分が今日在るのは、ご先祖様の魂が引き継がれたものであり、ご先祖様のお陰だという感謝の気持ちは忘れてはならないと思っている。
 
そこで、この度、ご先祖様に感謝する気持ちを日々感じながら過ごして行くために、「先祖代々の霊位」という位牌を作り、日々、感謝の気持ちを表す事にした。
 
位牌は、先日、静岡市内の仏具店に行って注文していたのが先週届いたので、机の上に置いて毎日、感謝の気持ちで拝む事にした。位牌を置く台として、コンパクトなステージタイプのミニ仏壇を買って位牌を置くことにしたのだが、地震等で部屋の上の方からモノが落ちて来たら大変だと思い直し、やはり、ステージタイプじゃなくて天井のついた仏壇にする事にし、そのミニ仏壇も今週届いた。
あとは、作った位牌への入魂である。
 
私の実家は真言宗(仏教)であるが、私自身は、今のところ無宗教なので菩提寺もない。ただ、私が今の家(中古住宅)を1987年に買った時に、玄関の位置が鬼門の方角に少し掛かっていたため、カミさんの実家が懇意にしていたお寺の住職さんにお越し戴いて、鬼門除けの祈祷をして戴いた事がある。その際に、ご祈祷のあとにご住職から言われたのが、「祈祷中に、こちらのご先祖様が沢山私の周りに集まってきた。お宅は、氏族の出らしいね。」ということである。
 
上のご先祖様が集まってきた話は、以下の記事の《余談2》のところに書いている。
 私のルーツ 父母
  
そういうご縁があったので、今回の位牌への入魂に際しては、このお寺にお願いする事にしたのである。カミさんから予約してもらい、昨日、お寺に行って位牌に入魂して戴いた。
32年前に鬼門除けのご祈祷をして戴いたご住職(東岳さんという方)に今回もやって戴きたかったのだが、どうやら、東岳さんは引退され息子さんに代替わりされた様なので、昨日は、新しいご住職(息子さん)にお願いした。
静岡県駿東郡長泉町にある浄泉寺というお寺である。南妙法蓮華経というお題目を唱えておられたので、日蓮宗系のお寺だと思う。
 
30分ほどの時間を掛けて丁寧なお経(お題目と言うのかも知れない)をあげて戴き、なおかつ、本堂に入る前の控えの間で、「最近、どなたか亡くなられた方がいますか?」と聞かれたので、2ヶ月前に兄が亡くなった話をしたのだが、ご住職の厚意でその兄の供養までして戴いた。
 
自宅に戻り、入魂された「先祖代々之霊位」の位牌に早速、線香を炊いて拝ませて戴いた。
 
昨日のお寺にて、ご住職より、ご先祖様の霊を敬う事はとても良い事だと言われ、仏壇よりも位牌が大事であること、位牌に対しては生きている人と同じだと思って対面するのが良い、だから、日頃の仏壇の手入れ(お掃除など)も保ってやってくださいとのお話をして戴いた。
 
「先祖代々霊位」の位牌と向き合う時間が持てるのは、精神的にも落ち着いて良いことだと実感する今日この頃である。
 
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1 「摩須家先祖代々の霊位」の位牌
 
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2 私が一番長くいる部屋の、パソコンの奥にした仏壇の位置(南向き)