アナログからデジタルへ(3) 小学校時代

アナログからデジタルへ(3) 小学校時代

2015年02月19日(木) 快晴

 携帯電話をソフトバンクに代えて以来、イタズラメールならぬイタズラメッセージがずっと続いている。これまでの他社携帯でのイタズラメールは、文字通りメール(eメール)で届く形であったのだが、ソフトバンクの場合は、多分、「S!メール(MMS)」と呼ばれているものではないかと思うが、メール受信ではなくメッセージ受信と言う形で送られてくるので最初は面食らった。と言うのも、経験的にメッセージ機能で送られてくるものの多くは携帯電話会社からのメッセージだからである。イタズメッセージが最初に届いた時もソフトバンクからの何かのお知らせメッセージだと思ったのだが、メッセージ本文を読んでみると、明確にソフトバンクとは名乗っていないし、内容からは微妙に怪しい雰囲気が伝わってくる。文中にURL(ホームページのアドレス)が書かれてあり、「会員登録が完了したので確認をお願いします」と書かれていたので、これはイタズラメッセージに間違いないと確信した。勿論、ホームページを開いたが最後、ワナに引き込まれてしまうので間違ってもURLを開いたりは絶対にしない。2通目以降は受信メッセージ一覧を見ただけで機械的に削除している。このイタズラメッセージは今も続いているので、淡々と削除し続けている。相手と私の根比べである。まあ、相手が無理と諦めて送って来なくなるまで削除し続ける積もりである。もう慣れているので全然煩わしくも感じない。思うに、他社通信キャリアでは無かったメッセージ形態のイタズラメールがソフトバンクでは有るというのは、ソフトバンクではeメールと同じ様なメールアドレスがメッセージ送受信に対しても発行されているからであろうと思う。ソフトバンクの場合、メールアドレスのID(名前)を契約時に決めると、eメールアドレスとS!メール(MMS)のアドレスがセットで発行される様である。具体的に言うと、例えば、名前(ID)を「momoe_yamaguchi」と決めた場合、eメールのアドレスは、は「momoe_yamaguchi@i.softbank.jp」、S!メール(MMS)のアドレスは「momoe_yamaguchi@softbank.ne.jp」と言うアドレスが発行される。イタズラメールの犯人にとっては、多分、コンピューターでメールアドレスを無作為に生成する場合でも、「xxxx@softbank.ne.jp」と言う形のアドレスの方がxxxx部分の文字列だけを無作為に生成すれば良く、実存する名前にヒットし易いのでは無かろうか。それに、eメールではなくメッセージとして送られて来た方が、受け手が携帯電話会社からのメッセージだと勘違いしてくれてワナに引っかかり易いと考えるのだと思われる。
 さて、余談はこれくらいにして、「アナログからデジタルへ」の第三弾は小学校時代である。期間は1961年4月〜1967年3月である。この頃になると、もう写真の枚数は激減である。我が家には当時は8ミリカメラはあったが写真機(フィルムカメラ)は無かったので、写真と言えば他の人から撮って貰ったものしか無い。従って、枚数は本当に少ない。


1 高取小学校の1年か2年の時のクラス写真。上から2段目の左から3番目が私。   
 この中には、後に高校で再会した人、大学のバドミントン部で再会した人など、色んな人がいる。実は、浜崎あゆみさん(歌手)の父親になる人もこの中にいる。
 54年近く前の写真であるが、結構、名前は覚えていそうである。きしもとえいじ、いくたけまゆみ、かわなみけんじ、たかたやすま、かわもとみちこ、いのうえよしじ、よこたせいいち、ばばしょうご、うちのえつこ、ともつねあつし、ふなこしなおみ、おおつかけいこ、たかふじあきら、よしだてつお、やまもとみどり、おおくま・・・、なかぞの・・・、まえだ・・・、いしばし・・・、おがわ・・・、ひらの・・・、のより・・・、あおやぎ・・・、かとう・・・、にしだ・・・、やすかわ・・・、くまがえ・・・、はらだ・・・、うし・・・・、たなか・・・、  写真を見ただけで54年前の名前が浮かんで来るとは不思議なものである。


2 近所の畑で花摘み(高取小学校1年)  
 おでこの絆創膏は何だったっけ? 背後に聳えているのは福岡西消防署の火の見櫓である。昨年の夏に現地を訪れた時には既に無くなっていた。 


3 父の会社の車庫建築現場にて。まだ痩せてますネェ。帽子は懐かしい西鉄ライオンズの帽子である。 
 1959年6月に母方の祖父と父とで起業した運送会社(本社は昭代町)。当初は三輪トラック2台で始めたが、台数の拡大に伴い福岡市南西部の七隈(現、城南区茶山)に車庫兼寮を造ることになった。写真は、その建築現場で撮影したもの。ウチの家族は、私が小学校2年だった1962年11月にこの地に移転することになった。現在の私の実家である。引っ越して来た当時は、家の前の道は未舗装、電話線もまだ敷設されていなかった。道の向かい側には原野が続き、正面には遠く離れた城南中学校の校舎が見えていた。その後、原野が整地されて茶山団地が誕生し、更に、茶山団地と城南中学校の間に福岡県立城南高等学校(私の母校)、城南小学校が出来、城南中学校の背後には荒江団地が出来た。未舗装だったウチの前の道も、今では片側2車線の幹線道路に変わり、地下に福岡市営地下鉄七隈線が走っている。


4 叔父とその友人に連れられて太宰府天満宮に遊びに来た時の写真。そろそろポッチャリし始めている。私の隣にいるのは叔父の友人。   


5 同じく太宰府天満宮にて   


6 太宰府の帰りに立ち寄ったところの写真。多分、南畑ダムの建設予定地辺りである。私の隣は叔父。   


7    


8 我が家の飼い犬「マル」。父の会社の名前の頭2文字を取って名付けた。   


9 別府小学校にて(2年の3学期)。最上段の左から3番目が私。   
 七隈(現、茶山)に引っ越したのは2年2学期の途中であったが、学校の転校は区切りの良い3学期からとなった。2学期の約2ヶ月間は、初めてバス通学をして高取小学校まで通ったものである。 


10 2年の3学期、別府小学校にて。 


11 原小学校七隈分校4年の時の写真  
 校区再編により、1964年4月に原小学校、別府小学校、田隈小学校の一部地域が分離して集結し、原小学校七隈分校として誕生。翌年4月には長尾小学校の一部も編入され福岡市立七隈小学校として独立した。私の代は七隈小学校の2期生である。独立した時には開校イベントとして合唱隊を編成し校歌を披露したものである。当時の私はボーイソプラノだったので、みんなの前で良く歌わされたものだが、6年の頃だったか声変わりして高音が出なくなったのを覚えている。
 写真は、野萩台に住む友達の家の近くに自転車で遊びに行った時に撮って貰ったもの。ちょうどこの辺りは、現在は福岡都市高速環状線(野芥IC〜堤IC)に変貌している。 


12 七隈分校4年のクラス写真。先生の右上が私。   


13 七隈小学校5年の夏、林間学校があり、篠栗町の合宿施設で2泊3日を過ごした時の写真。そろそろ太り出してますネェ。   


14    


15 小学校6年の修学旅行で長崎へ。写真はグラバー邸。   


16 同じく修学旅行先の雲仙地獄   


17 背振山への遠足(6年)   


18 卒業式  
 小学校の卒業式と言えば、今では色とりどりの私服を着て出席している様だが、当時は全員、中学校の制服を着て出席したものである。私は黒の詰め襟の学生服であった。