桓武天皇 都を長岡京から平安京に遷都


桓武天皇 都を長岡京から平安京に遷都
時期:794年11月22日(延暦13年10月22日)
作成:1945年8月15日(水) ★便宜上の日付
更新:2024年6月10日(月)
 
第50代・桓武(かんむ)天皇、都を長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区あたり)より平安京に遷都。
 
以降、2024年現在まで、京都市は日本の「都(みやこ)」である
 
ただし、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、東京も新たに「都」として定められ(奠都され)、明治2年(1869年)に「政府」が京都から東京に移されたため、日本の首都機能は東京が引き継いでいる。
即ち、2024年現在、日本の「都」は、京都・東京の東西両京である。
 
因みに、122代・明治天皇は、表向きの歴史上は、121代・孝明天皇の皇子である睦仁親王が践祚(せんそ)(≒即位)した事になっているが、実際は別の人が践祚している。即ち、周防国(現:山口県熊毛郡田布施町あたり)に住んでいた大室寅之祐(おおむろとらのすけ)が、京都に呼ばれ、堀川御所(堀川通りにあった本圀寺(ほんごくじ)の境内に水戸・徳川斉昭が秘密裡に建造した御所)において本物の睦仁親王と一緒に帝王学を学び、同じ日(1871年(明治4年)11月17日)に、東京の新宮殿(多分、現在の皇居)で、同時並行的に睦仁親王と大室寅之祐が大嘗祭(皇位継承に際して行う宮中祭祀)を挙行して、二人とも天皇を践祚している
日本国の公儀政体の最高位となる表の天皇は122代・明治天皇となった大室寅之祐、外交と國體黄金ファンドの管理権を持つ裏の天皇(落合莞爾先生の命名であるところの國體天皇)となったのが(本物の)睦仁親王である。
 
なお、大室寅之祐は、睦仁親王と同じく、大塔宮護良親王(96代・後醍醐天皇の皇子)の直系男系子孫なので皇位継承権がある。護良親王の第一皇子であった興良(おきなが、おきよし)親王が、父親の命により、朝鮮半島からの帰化人の基地と化していた周防国の監視のために派遣されたが、その直系男系子孫が大室寅之祐である。
これは余談であるが、秋篠宮殿下の内親王である真子様のお相手である小室圭さんは、大室家の縁戚だと落合莞爾先生が言われていた。
  
以降の表(政体)・裏(國體)の天皇は、以下のとおり。

政体天皇 122代・明治天皇➪123代・大正天皇➪124代・昭和天皇➪125代・平成の天皇(現上皇陛下)➪126代・今上天皇
國體天皇 睦仁親王堀川辰吉郎(睦仁親王の実子)➪高松宮宣仁親王(堀川辰吉郎の実子)➪高松宮妃・喜久子妃殿下現在の國體天皇(名前は秘匿されている)

 

  
【補足】奠都(てんと)とは
奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいう。
明治天皇が東京に移った際は、京都を都として残す形をとり、遷都(せんと)ではなく東京奠都が行われた。
(Wikipediaより)