大学時代の同級生の結婚式で帰省


大学時代の同級生の結婚式で帰省
1981年5月1日(金)~5月7日(木)
更新:2022年6月11日
 
大学を卒業してから5年目となる1981年5月、大学の同級生であり、雀友でもあった友人が目出度く結婚する事になり、彼の地元である大分県安心院(あじむ)での結婚披露宴に出席する事になった。今回の帰省の目的はこれである。
 
彼は、学生時代から将棋を趣味にしていて、棋力は有段者であった。確か、当時から立派な将棋盤を持っていたと聞いた様に思う。将棋の他に囲碁も強かったが、囲碁については同じクラスに四段という高段者の友人もいて、大学クラスでの休み時間には、結構、教室内で囲碁や将棋がやられていた記憶がある。
私は、囲碁も将棋も小学校時代に親から教えられて真似事をした程度だったので、ヘボ将棋、ザル碁のレベルだったが、大学時代には横から同級生の対局を観戦しているだけで、結構棋力が上がった様にも思う。単なる勘違いかもしれないが(笑)。
 
彼は、大学卒業後は、大分県の高校教員(数学教師)になっていたが、最終的には大分県立高校の校長まで昇進している。2014年の夏には、福岡にて同級生有志の同窓会を開き再会したが、まあ、変わりませんでしたネェ(笑)。
 
話を結婚式に戻す。
  
結婚式当日の午前中に福岡の実家を出て、博多駅から国鉄を利用して鹿児島本線~日豊本線と乗り継いで大分に向かった。この時の帰省に際しては、思いがけず父が私にイタリア製の革靴を買ってくれていたので、大分に行く際に、早速その靴を履かせて貰う事にした。
 
電車を降りた後、どういう交通手段で安心院町の披露宴会場まで辿り着いたかは全く憶えていないが、とにかく会場に到着。宴の大広間は和室であり、テーブル席ではなく座敷に一人ずつの御膳と座布団がグルリと並べられている和風(昔風)の宴であった。
 
披露宴がお開きとなり、各参列者は席を立って順次、大広間を出て行ったのだが、部屋を出る順番が結構後の方になった私が部屋から出て靴を履こうとしたら、大広間の入口に並んでいる靴の数が余り残っておらず、かつ、散乱しており、しかも、左右が揃っている靴が一組も残っていなかったのである。しかも、私が履いて来た新しい靴は左右共に見当たらなかった。恐らく、酒を飲んで酩酊した各参加者達が、適当に靴を履いて帰ったのだろうと思う。それも一人二人ではなく、相当の人数の方々が適当に目に付いた靴を履いて帰ったものと思われた。それ以外には考えられないので。
店の方に聞いても分からないと言われるし、さりとて裸足で帰る訳にも行かず、結局は、残っている左右バラバラの靴の中から自分の足のサイズに合う靴、勿論、左右が別々の靴を履いて帰らざるを得なかった。
この件に関しては、後日、私の父が店の方に抗議して弁償して貰ったらしいが。
 
この日は、新郎(私の同級生)が、招待した我々大学同級生のために宿を準備してくれていたらしく、結局、ご厚意に甘えて、その日は宿に泊まり、翌日帰ることにした。人数は忘れたが、3~4人だったと思う。
宿での夕食には、スッポン料理が出て来たが、私にとっては初めて食すスッポン料理であった。美味かった。
 
翌日は、すぐに帰るのも勿体ないので、当時オープンしたばかりの安心院アフリカンサファリパークを観光してから帰る事にした。記憶が曖昧だが、宇佐神宮にも立ち寄った様な記憶がある。