寮生活スナップ写真(1979年3月)
横浜市緑区の荏田にあった富士通寮の様子である。
廊下の左右に並ぶ寮生の部屋は6畳一間、トイレと洗面所は各階(1階~3階)に一箇所、風呂と食堂(ガス台付、共同冷蔵庫付)、娯楽室(和室、TV有)は1階のみであった。
食事は、毎月、一ヶ月分(平日分のみ)の朝食と夕食の食券が販売されていたが、購入は任意であった。
私は食券を買っていたが、お陰で、納豆が食べられる様になった。入社した1977年当時は、福岡では納豆を食べる人は少なかったので、売ってる店も少なかったのではないかと思うが、私は入社するまで納豆を食べた事が無かったので、初めて食べた時には、「こんなに腐って糸を引く様なモノを良くも食べられるもんだ」と思ったものである。しかしながら、朝食で出て来るのに棄てると言うのも良心が痛むので、我慢して食べていたら、そのうちに何と美味いと思う様になった(笑)。
悩ましいのは休日(土、日、祝日)の食事である。私は、余り外出する方では無かったので、食事だけのために外に出なければならず、しかも、寮の周りは住宅街だったので食事処が殆どなくて、朝食は部屋で適当に食べるとしても、昼、夜の食事をどうするかで何時も迷っていた。一日3食ともカップラーメンという日もあったが、とにかく休日の食事は悩ましかった。これは、寮を出て一人暮らしを始めた後も同じであったが。
部屋は、入社当時は二人一部屋の相部屋制だったので、一人当たり3畳分のスペースしかなく、机を置くと布団スペースしか残らなかった。ただし、寮生が減って来たのか、何年目かに24歳以上は一人一部屋になったと記憶している。
寮には、大卒で5年、大学院卒で3年という入寮期限があったが、大卒の私は、5年目(1981年)の11月に退寮し、小田急沿線の百合ヶ丘(川崎市多摩区)で一人暮らしを始めた。