新人教育の一環で工場実習へ


新人教育の一環で工場実習へ
時期:1977年4月8日(金)~4月27日(水)
作成:2022年7月13日(水)
 
2022年現在の事は分からないが、1977年当時の富士通における大学卒(高専卒含む)の新入社員教育は、入社式のあと、
 1)1週間弱のオリエンテーション
 2)3週間弱の工場実習
が、全新入社員に対して行われた。配属先発表は 工場実習の終了後となる。
 
【1】オリエンテーション
 
4月4日(月)より、川崎工場での1週間弱のオリエンテーションが実施された。私はHクラスである。
 
何クラスあったのかも、クラスの人数が何人くらいだったのかも憶えていないが、
仮に大卒新入社員数が千人だったとすると、私の姓が「ま行(7番目の行)」でHクラス(8番目のクラス)であるから、単純計算すると、
最終行である「わ行(10番目の行)」の姓のクラスは 8×(10/7)≒13.8と言う事で、まあ、全体が14クラス(A~Nクラス)と言ったところか。
そうだとすると、一クラスは70人前後だったのかも知れない。
まあ、大した話では無い(笑)。
 
オリエンテーションの最終日に、翌日からの工場実習の行き先が発表される。そして、その足で各配属先工場への移動となる。従って、新入社員は、最終日には旅支度をした上でオリエンテーションの教室に出勤してくる訳である。勿論、出勤する時点では、その日に、日本国内の何処に飛ばされるのかは分からないのである(笑)。
 
【2】工場実習
 
富士通では、入社後にこの工場実習というのがあり、国内の各工場に3週間弱の期間配属され、配属先の業務の実務を体験するのである。
オリエンテーションのクラス分けは新入社員(大卒)の名前(あいうえお)順だったので、工場実習の配属先は同じクラス内でもバラバラである。
私の配属先工場は、神戸工場であった。
(勿論、阪神淡路大震災よりもずっと前の話である。)
 
川崎工場を出て国鉄新横浜駅に向かい、東海道新幹線で神戸に移動。
 
職場は、神戸工場内にある富士通の子会社・富士通テンの品質検査部門であった。
実習先職場の上司は、円田(えんだ)課長、押部(おしべ)さんというリーダの方などであった。
 
富士通テンと言ってもピンと来ないが、自動車に多く搭載されているテン・カーステレオを製造している会社である。
 
実習内容は、カーステレオ部品の品質検査(抜き取り検査)であったが、時には、不良品が多数出たM社のモーターについて、全数検査の指示があり、「ラインが止まるから急げ」と言われて必死で頑張ったこともある。
また、梱包内容にミスがあったと連絡が入った時には、一日、倉庫の中に座り込み、箱を開けて中身を確認して梱包ミスした箱を選別する(正常品は箱詰めし直す)作業をする事もあった。
 
工場実習中の寮は、山陽本線の「舞子」からバスで20分くらいの所にある多聞台(神戸市垂水区)の富士通多聞寮であった。
 
実習中は、正規の従業員とは違って残業も無いので、夜は「飲み歩き」か、寮に帰っての「麻雀」であった。
飲み歩きメンバは、松浦豊次(ほうじ)、丸尾、井上武久の各君。麻雀メンバは、横山、松浦、秋草の各君などなど。
後に、松浦、横山の両君はSE部門、丸尾君は技術部門(富士通研究所?)、井上君は電電公社向け部門、秋草君は私と同じソフトウェア部門に配属される事になる。
 
飲みに行ったところは、国鉄兵庫駅のガード下、三宮(さんのみや)のグランドパブ、新御堂(大阪)のグランドパブ、多聞台のスナックなどであった。
井上武久君が大阪の大学出身だったので、大阪に出る時は彼の先導に着いていく形で行った。神戸の街を歩くのも、大阪の街を歩くのも、この時が始めてであった。
グランドパブはチェーン店だったので、後に、東京に戻ってからも銀座店に行くようになる。確か、キープしたボトルは残量がコンピュータ管理されていて、他のチェーン店でも飲めるというシステムだった様な記憶が・・・。
 
多聞寮には、野良犬が住み着いていた様で、私が近づいて行くと最初は警戒していたが、お菓子で手懐けて、最後は、纏わり付いて来る様になった。
 
それから、関西弁と言うのは影響力が強いようであり、実習期間の後半の頃には、関西弁のイントネーションで喋り出す実習生も少なく無かった。
私は、両親が徳島の生まれなので、関西弁のイントネーションには慣れていたし、喋ろうと思えば、関西弁風に喋る事も出来ていた。
 
まあ、工場実習の思い出と言えば、こんな所である。