安部談話についての記事紹介(韓国ソウル大学教授の投稿記事)


安部談話についての記事紹介(韓国ソウル大学教授の投稿記事)
2015年9月12日(土) 晴れ
 
昼間は残暑があるものの、朝晩は ようやく秋を感じる季節になってきた。
 
さて、本日は、8月14日に出された「安部談話」について、フェイスブックで見つけた記事を紹介する。
韓国ソウル大学の教授・李栄薫(イ・ヨンフン)氏の投稿記事である。
まともな話が、余り伝わってこない韓国の中にも、この様な、知性的な方がおられると言う事が分かり、ホッとした。
 
長文であるが、以下、イ・ヨンフン氏の投稿記事と、安部談話そのものを引用する。
 
【安部談話についてのイ・ヨンフン教授の投稿記事】
〜〜〜〜〜以下、全文引用〜〜〜〜〜
「韓国人、あなたは誰ですか?」

[精密分析]安倍首相の「戦後70年談話」と朴槿恵大統領の光復節祝辞

イ・ヨンフン(ソウル大教授)

●「韓国政府の甘えはもう受け入れない。私たち日本の過去20世紀の歴史に対する理解はこうである。君たちの歴史的アイデンティティは何なのか。果たして私たちと同じように、自由、民主主義、人権の基本的価値を共有する国なのか。」

●歴史の解釈を巡って争う外交ほど愚かなこともない。歴史は決して元に戻すことはできないその時代の人間の熱い選択である。

去る8月14日、日本の安倍晋三首相が発表した「戦後70年談話」は、韓国政府と韓国人に尋ねる。

「あなたは誰ですか。」

安倍談話を数回精読した挙句、私はそのような質問に直面した。
安倍談話は形式上、1995年の村山談話と2005年の小泉談話を継承している。
単語の駆使においても、文章の流れにおいても、以前の談話を下敷きにしている。
しかしながら、3倍長くなった談話のあちこちで、以前の談話の重要な部分を取り消している。

安倍談話は、19世紀の帝国主義時代の回顧から始まる。
西洋は圧倒的技術力と軍事力で、全世界を植民地に分割した。
植民地化の危機感から、日本はアジアで唯一立憲政治を立てて、独立を維持することに成功した。
日露戦争で日本が勝利したことは、アジアとアフリカの人民に勇気を与えた。
このように安倍談話は、日本の韓国併合を歴史の不可避の選択だったとして正当化している。

日露戦争後、日本はロシアとイギリスから韓国の宗主権を認められた。
米国は、日本がフィリピンに積極的行為をしないという条件で、日本の韓国に対する権利を了承した。
このように、日本の韓国併合は、帝国主義列強の協調体制で行われたものだった。
安倍談話はその点を示すことによって、韓国併合には米国をはじめとする国々の責任もあるということを指摘している。

安倍談話が是認する日本の過ちは、1930年代からの出来事、侵略、戦争である。
満州事変(1931)、日中戦争(1937)、太平洋戦争(1941)をいう。
第一次世界大戦後の国際連盟の創設を介し、戦争を犯罪視する新しい国際潮流が明らかになった。
日本はこのような国際的な潮流に逆らって、力で自国に有利な国際秩序を作ろうとした。

その点は間違っていた。
ところで、日本を苦境に追い込んだのは、大恐慌以来の列強のブロック政策だった。
安倍談話は、それに対する指摘まで逃さずにして、日本の間違いには列強の責任もあったということを喚起している。

戦争は、数百万人の無実の人の命と幸せを破壊した。
安倍談話は、戦場で散華した日本の軍人たち、戦火に巻き込まれた民間人の犠牲、敗戦後の帰還者たちの苦痛、日本の敵となって激しく戦った米国、オーストラリア、欧米諸国の兵士たち、厳しい扱いを受けた捕虜の痛み、人格と名誉に大きな傷を受けた女性たちに対して、胸が煮えるような哀悼の意を表した。


「連合国の寛大さ」への感謝の挨拶

談話は非常に優れた文章である。
日本の過ちを許し、国際社会への復帰を助けてくれた連合国の寛大さに感謝の挨拶を伝えている。

戦後70年の日本は、平和国家として武力で国際紛争を解決してはならないという原則を堅持してきた。
植民地支配とは永遠の別れを告げて、すべての民族が自決の権利を有する世界を志向した。

そのような戦後70年に誇りを感じている。
今後もその点を不動の方針として固守しながら、日本は平和な国際秩序、女性の人権保護、自由な国際経済、途上国サポートに基づく世界を構築していくため寄与していくものである。
以上が安倍談話の要旨である。

結果的に安倍談話は、1995年に村山談話が明らかにした「植民地支配と侵略」への「痛切な反省」を消したわけである。
形式的には前の政府の談話を継承するとしたが、内容的には前の談話を棄却した。

案の定、日本政府の外務省ホームページは、アジアの歴史問題に関する既存の立場を下ろして、首相の談話に基づいた改正作業を進めていると告示した。
安倍は、1910年の韓国併合は日本が謝罪する問題ではないと明確化したのだ。

安倍談話の最後の文は、私の頭が鈍器で殴りつけられたように思えた。
日本は、自由、民主主義、人権の基本的価値を共有する国と手を握り、平和と繁栄の世界を構築していくという部分である。
先日、日本政府は韓国を、自由、民主主義、人権の基本的価値を共有する国のリストから除外した。

「韓国政府の甘えはもう受け入れない。私たち日本の過去20世紀の歴史に対する理解はこうである。君たちの歴史的アイデンティティは何なのか。果たして私たちと同じように、自由、民主主義、人権の基本的価値を共有する国なのか。」

韓国人の肺を刺し、太いうめき声を挙げさせる、正面からの質問である。

安倍談話の直後の次の日に、朴槿恵大統領の光復70年のスピーチがあった。
そこで大統領が安倍談話について批判的に言及したのは適切ではなかった。
談話を正確に読み、以前の談話との連続と断絶を理解し、専門家の意見を聴取し、新しい談話に盛り込まれた複層の示唆を総合的に把握するには、少なくとも数日かかる。

それでも大統領は待っていたかのように、一日後に感情的かつ不正確なコメントを発した。
安倍談話を指して、「生きている証人がいるのに、歴史を覆い隠している」と批判したのは、一国の元帥が口にするには、過度に感情的な修辞だった。
残念だが、歴代首相の談話を継承していて幸いだという趣旨の発言は誤読である。

朴槿恵大統領の演説:無限の恥ずかしさ

私は、大統領と彼の参謀たちが、安倍談話をどれだけ真剣に読んだのか、その複雑に流れる文脈の中から韓国に向かって投げるメッセージを正しく見つけたのか、それだけの知力を備えているのか、疑う。

朴槿恵大統領の演説を繰り返し読んだ私の感想は、一言でいって無限の恥ずかしさである。
大統領の演説は、夢の中をさまようように、過去70年の韓国史を回顧した。
大統領は「70年前の今日、私たちの民族は独立に向けた熱望と献身的な闘争で、ついに祖国の光復を成し遂げました」と宣言した。

長年毎年繰り返されてきた、このような光復節の祝辞は、残念ながら事実ではない。
私は歴史学徒として、その点を率直に指摘しないわけにはいかない。
大韓帝国の敗北と同様、大韓民国の成立も、国際協議の過程でのことであった。
第二次世界大戦に巻き込まれた米国は、1941年8月の大西洋宣言を介して、戦争が終わった後、後進民族が奪われた主権と自治を回復する新世界秩序の構想を明らかにした。

1942年には韓国を日本から分離させるという方針を定めて、これを1943年12月のカイロ宣言で明らかにした。
このような米国の選択は、フィリピンの独立方針と密接な関係があった。
つまり米国の韓国についての方針は、米国がフィリピンを、日本は韓国を領有するという1905年に行われた両国の密約を、破棄したも同然だったのだ。

このような米国の戦後処理の方針に、韓国人が有効な影響を及ぼしたという証拠は、まだ見つかっていない。
その戦後処理のため、米国の若者10万人が太平洋で死んだ。
300万の日本人が、かの帝国を守って死んだ。

日本の領土として支配された韓国では、23万人の若者が軍人と軍属として徴用されて、その中で2万2000人が、太平洋で日本人と共に死んだ。
そのような理由から、1951年の48連合国と日本の講和条約では、韓国は連合国の一員として招待されなかった。

カイロ宣言は世界大戦が終わった後、モスクワ会談、米ソ共同委員会、韓国問題の国連移管という国際協議の過程につながった。
その結果、1948年、朝鮮半島南部で大韓民国が建国された。
その後も国際社会は、この新生国の主権の是非を論じたが、その最後の国際的な協議が1954年のジュネーブ会談である。

韓国の外交官が、その協議に出て行って、大韓民国を取り消そうと主張する中国、北朝鮮、インドなどの攻勢から大韓民国を守ることができたのは、その前の3年間の戦争で、米国の若者3万6,574人が地上で死んだおかげだった。
これ以上付け加えることも抜くこともなく、大韓民国は、帝国主義体制に代わった米国の戦後処理方針とその実践過程で生まれた国である。

私が大統領の演説が夢の中をさまようようだと言ったのは、この国の成立をめぐるこのような国際政治の歴史について、たった一言の言及もなかったからである。
まるで韓国の独立運動家たちが、壮大な軍勢を成して豆満江を越えて、日本軍を追い出したかのように話していた。

北朝鮮の金氏王朝が、歴史をそのように述べている。
率直に言って、私たちの大統領の演説に現れた歴史認識と、金氏王朝の偽善的な歴史叙述は、似たようなものである。

大統領は当然、この国を独立させ、防御してくれた米国に対し、韓国人に代わって感謝の挨拶を伝えなければならなかった。
安倍首相が日本の過ちを許した連合国に感謝の挨拶を伝えたこと以上に、深い感謝の挨拶を伝えなければならなかった。

私は朴槿恵大統領の演説を読んだアメリカの指導者たちが、冷笑と軽蔑の目つきで韓半島を見つめるかも知れないと心配する。
心を尽くして感謝することができるときに、歴史の願望は恵みに変わる。
日本とあれほど激しく戦った米国のホワイトハウスが、安倍談話を肯定したのを見るがよい。
安倍談話は、談話の中で明確に米国の責任を指摘しているというのに、米国はそれを笑顔で許容したのである。
それが政治の役割であり、美徳である。

「漢江の奇跡」が可能だった理由

朴槿恵大統領の演説は、大韓民国を成立させた解放後3年間の国内政治について、激しい混乱を表わしている。
大統領は、今日は「祖国の解放」を成し遂げて70年であり、「建国」または「政府樹立」を成し遂げて67年だといった。
光復とは何なのか、建国とは何なのか。
私は本紙505号に掲載した文章で、光復と建国は実はトートロジー(*同語反復)であると指摘した。
一国がその国の最大の祝日を記念して、こういった混乱を露呈するのは、この上なく恥ずかしいことだ。

70年前のその日は、米国が行った解放の日である。
以後3年間韓国人たちは、どのような国を立てるかを巡って、多岐に分かれて激しく対立した。

「自由民主主義で国を立てなければならない。共産主義で行くのは危険性が大きい。左右合作は、この民族を再び脱け出すことができないどん底に陥れるようなものだ。」

そういった叫びで反共の砦を構築し、あちこちに右往左往する心を正し、最終的にこの国を建てた人が、李承晩初代大統領である。
彼の慧眼と闘志がなければ、おそらく大韓民国は、その孤高の城を守ることができなかっただろう。

後代の大統領は、67年前の建国事件を回顧しながら、初代大統領の美しい功績を讃えて知らせなければならなかった。
それが、国民の乱れた心を引き締める近道である。

大統領が、この国が過去の世代に成し遂げた経済的成果を「漢江の奇跡」と称賛したのも適切ではない。
低成長傾向がすでに10年を越えているからではない。
厳密に言うと、自然や歴史において、奇跡などないからである。
経済成長の基礎的条件となる市場経済制度は、日政期(*日韓併合時代)に整備されたものである。

解放後、分断と戦争で粉々になった私たちの経済を起こしたのは、米国の援助だった。
1967年までに軍事援助を含みおよそ100億ドルの援助が供与された。
それを通じて、食料、肥料、精油、綿紡織などの基礎工業が、1960年代前半までに建設された。
1950年代には国民教育熱風が吹いた。

1965年、反日民族感情の大きな障壁を越えて、日本と国交正常化がなされた。
その後、韓国、米国、日本を接続した素材、部品、市場の国際的な関連は、韓国経済の高度成長を支えた最も重要な条件だった。
後進経済が必ず直面する技術開発の隘路を、韓国経済が生き残ることができたのは、簡単に高度な素材、部品、機械を輸入することができる隣国日本があったからである。

その隣国の効果は今も同じだ。
今日の韓国経済が享受している毎年300億ドルの貿易収支黒字は、毎年200億ドルに達する対日赤字に基づくものである。
大統領は「漢江の奇跡」を発展途上国の教科書として賛美する前に、それを可能にした内外の条件と歴史について、謙虚に感謝の意を表さなければならなかった。

韓国の歴史的アイデンティティは何ですか。
私たちにとって、100年前の朝鮮王朝は何ですか。
中華帝国の藩屏として存在していたあの国が、無理やり外勢を引き込んで自職を保存しようとしたとき、東アジアの歴史がどれだけ不幸になったのか。
それに対する韓国人の責任はないのか。

韓国人の責任はないのか?

人間には誰にでも、自分なりの個性的記憶がある。
人々が互いに独立しているのは、異なる記憶と解釈を尊重するからだ。
激動の歴史の国ごとの記憶は、それぞれの境遇が異なっているので、決して同じとはいえない。
優しい顔で各自の記憶を尊重する中で、視線を共に未来に合わせなければならない。

歴史の解釈をめぐって争う外交ほど愚かなものはない。
そういったものは、象徴統合しか可能ではない貧しくて足りない社会固有のものである。
自由で独立した人間にとっての歴史は、人間の知性と愚かさ、勇気と臆病を学ぶ省察としてあるだけである。
安倍談話の一節を借りれば、歴史は決して元に戻すことができない当時の人々の熱い選択だったのだ。

韓国はいまだに貧しくて足りない社会なのか、それとも自由、民主主義、人権の基本的価値が尊重される社会なのか。
安倍談話が投げかけた問いに答える番だ。

イ・ヨンフン(ソウル大教授)
〜〜〜〜〜以上、全文引用〜〜〜〜〜


【安部談話(2015年8月14日】
〜〜〜〜〜以下、全文引用〜〜〜〜〜
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣  安倍 晋三
〜〜〜〜〜以上、全文引用〜〜〜〜〜