書籍メモ 「英語化は愚民化」 施光恒


書籍メモ 「英語化は愚民化」 施光恒
2015年9月7日(月) 雨 のち 晴れ
 
本日は書籍のメモを残す。

書籍名 「英語化は愚民化  日本の国力が地に落ちる」
著者 施 光恒(せ てるひさ) 1971年、福岡県生まれ。政治学者。九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。

 
現在、日本では、英語化について色々な動きが出て来ている。詳細は把握していないが、聞きかじったところによると、以下の様な動きがあるらしい。
 
小学校のある学年から英語の授業を始めるらしい。(一部の学校では既に開始?)
 
●中学、高校の英語の授業では英語しか使わない(日本語は原則禁止)授業が始まるらしい。(もう始まっている?)
 
●大学の講義を英語でやる取り組みが始まっているらしい。また、その推進の程度に応じて、国からの補助金の額に差が出るらしい。
 
●大学入試でTOEFL(世界共通の英語力テスト)を必修にするらしい。
 
英語の特区(国家戦略特別区域法に基づく国家戦略特区)を作り、その特区内では英語を標準語とするらしい。目的は、海外からの企業が入って来やすい様にすることらしい。
 
●企業によっては、社内公用語を英語にする企業が出て来ているらしい。ホンダ、楽天とか。
 
本日掲げた本は、これらの日本での英語化に警鐘を鳴らした本である。
主な内容は以下。なお、私の拙い表現ではうまく伝えられない内容については、本書籍の表現をそのまま引用する。引用部分は、緑色にしてある。
 
楽天の三木谷浩史会長が、自社の英語化だけではなく、首相を議長とする産業競争力会議の委員として日本社会全体での英語化政策の旗振りをしている。
 
●今の日本の英語化政策は、グローバル化と言う、ビジネスの論理(グローバル人材の育成という財界からの要請)だけから推進されているが、そもそも、日本語(母国語)と言うものは、それ自体が日本文化を生み出しているものであり、ビジネスだけを考えた結果として出て来た短絡的な英語化は、日本語を衰退させ国を滅ぼす
 
英語化政策は、日本の良さや強みを破壊し、日本の分厚い中間層を愚民化してしまう
 
「英語化さえすれば、世界最高水準の研究や教育が実施でき、バスに乗り遅れずに済むはずだ」という奇妙な「空気」が、現在の大学業界に蔓延している。
 
●中世ヨーロッパを支配していたのはラテン語。当時は、土着の各国の現地語(母国語)は、日常的な事柄を話す言語であり、政治、経済、自然科学、文学、芸術と言った高級で知的な内容の表現、抽象的かつ専門的な嗜好や議論を可能にする語彙(言葉)は現地語には無かったので、それらを論じる時にはラテン語が使われていた。
その結果、ラテン語が分からない大多数の庶民には、一切の知的な情報が閉ざされた暗黒の社会となり、聖職者や貴族、学者(特権階級、知識階級)等のラテン語が分かる一握りの階級との間で、教養レベルの格差、職業の格差、収入の格差が出来ていった
その時代を終わらせるきっかけとなったのが、マルチン・ルターらによる宗教改革である。それまでラテン語で書かれていた聖書を、現地語(英語、フランス語、ドイツ語など)に翻訳する(現地語には対応する言葉が無くて表現できなかった言葉を新しく作ることにより翻訳する)ことで、庶民が、伝道師などの人を介してではなく、現地語に翻訳された聖書を直接読める様になり、より深く理解できる様になった。この流れが他方面にも広がり、文学、自然科学、・・・の分野の書物もラテン語から各国の現地語に翻訳される様になり、庶民の教養レベルが上がり、職業の格差、収入の格差が無くなって行った。
聖書の翻訳が中性ヨーロッパ社会の体制を解体し、近代社会を準備した。
 
●日本でも、明治維新のあとに外国から沢山の新しい技術、文明、文化が入って来たが、最初は、入って来た外国語の書物を、外国語を勉強しながら読み解いて身に付けて行ったし、外国から学者や教師を国内に招聘して、外国語で知識習得をしたが、そこでは終わらずに、外国語から日本語に翻訳する(日本語に対応する言葉が無い時は新しく言葉を作って翻訳する。例えば、「文明」、「文化」、「経済」など)と言うことを行ったため、ある時期以降は、翻訳された日本語の書物で外国の技術等を吸収して行ける様になった。
 
●創造性をもたらす要因について、母語のもたらす感覚との密接なつながりは否定できない。
新しく何か(理論でも、文学作品でも、あるいは製品でも)を作り出す時は、新しい「ひらめき」や「かん」「既存のものへの違和感」といった漠然とした感覚(暗黙知)を、試行錯誤的に言語化していくプロセスが求められる。このプロセスを、「土着語」(母語)以外の言語で円滑に進めることは、ほぼ不可能だ。

 
翻訳と土着化が、各地域の文化を活性化、多様化する。
人々が、多様で高度な知に大きな格差なくアクセスし、それに基づいて活動できるようになる。
各社会の人々にとって、馴染みやすい、各社会の文化に根差した多様性あふれる新しい社会空間が形成される。

 
●グローバル化、英語化の行き着く先は、ごく一握りのエリートが経済的にも知的にも特権を握り、それ以外の大多数の人々は、社会の中心から閉め出され、自信を喪失してしまう世界に他ならない。
例えば現在の米国の様な、1%の超富裕層が国の99%の富を独占し、残り99%の国民は、貧困にあえぐ格差社会と同じ様な格差社会となってしまう。
グローバル化・ボーダレス化の流れは、近代化どころか「中世化」、つまり反動と見る方が適切だと言える。
日本の社会が英語化してしまえば、多くの人々が社会の重要な場から締め出され、知的成長の機会を奪われ、愚民化してしまう。
 
●明治初期にも、実は英語公用語化論があった。
その急先鋒は森有礼(もりありのり)であり、日本語廃止論にまで及ぶ主張を展開。
ところが、これに対しては、外国人のほうから反対論が上がった。
例えば、エール大学教授のホイットニーは、「母国語を棄て、外国語による近代化を図った国で、成功したものなど殆どない。(中略) 時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問をすることが難しくなってしまう。その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけが、すべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまう。」と言って反対した。
 
英語化を叫ぶ現代の政治家たちは、英語化の道を進んだ先に、何が待ち受けてうるのか理解しているのだろうか。
 
言葉は、単なるツールではない。
言語は、使い手の自己認識に影響を及ぼす。使い手の世の中の見方全体を変えてしまう可能性すらある。
我々の知性が言語を作ったのではなく、言語が我々の知性や感性、世界観を形作った。
日本であれば、日本語が日本人の考え方や感じ方、日本社会の在り方にまで影響を与えている。
日本の良さに、「思いやり」や「気配り」の道徳がある。言葉に出されなくても、他者の気持ちや思いを細やかに察し、他者の観点から自分自身を見つめ、他者に配慮する。
日本語では、状況に応じて、適宜、自分を指す言葉を柔軟に使い分けなければならない。(私、俺、自分、小生、お父さん、おじさん 等々)
自分の周りの状況を先によく知り、その後、そこでの自分が認識されるという順番となる。 この様な日本語の特性は、文化の様々な側面に影響を及ぼしている。
日本では、「思いやり」「気配り」「譲り合い」といった価値が強調される傾向が生じる。状況認識や他者との関係性の認識が先で、それに応じて臨機応変に自分を規定していくという柔軟な日本人の自己認識の在り方は、「思いやり」「気配り」「譲り合い」の精神を育みやすい。自身の主張や欲求を、状況や他者の観点に照らして、お互いに望ましい形に事前に調整し合う。

英語の世界観では、常に自分が出発点、あるいは基準として、そこから周囲を認識するというものの見方になる。自分が、まず揺るぎなく世界の中心に存在していて、そこから他者や周りの状況を規定していく。
英語を母語とする人々は、自己は最初から中心に位置するので、複数の人々の自己主張は前もって調整されず、衝突し合うことが前提とされやすい。
そこで、英語圏だと、互いの自己主張のぶつかり合いを事後的に調整する「公正さ」という理念や、それを体現する法律やルールの明記や遵守が強調される傾向がある。

海外の人からは、「日本語を学ぶと性格が穏やかになった、人との接し方が柔らかくなった」と言われることがあるらしい。
 
「言葉はツールに過ぎない」という浅薄な見方に立ち、英語化を推し進めれば、いくつもの予想だにしなかった望ましくない帰結がもたらされるだろう。
例えば、子供の自己意識や道徳意識の混乱だ。母語である日本語も十分に固まっていない小学生の段階での英語教育の導入は、子供の安定した自己認識の形成を妨げる恐れがある。

 
のほかにも、沢山の興味深い話がこの本には書かれているので、興味ある方は是非読まれると良い。結構売れているらしい。
 
以下は、本書籍の刊行記念として企画された、著者(施光恒氏)と各1名の方(計2名、中野剛志氏、柴山桂太氏)との間のトークイベント(2件)である。
本書で訴えたかった事を、著者である施さんが自分の口で説明されているので、とても分かり易い。下線部をクリックすれば、動画が見られる。
 (1)『英語化は愚民化』刊行記念 施光恒×中野剛志トークショー
 (2)施光恒×柴山桂太「英語化」政策で我々は何を失うのか?