四半世紀は三つ昔 ~川崎の旅~
2006年9月2日(土)
追記:2022年11月26日(土)
◆JR東海道線・川崎駅
20年以上になるかと思うが、久しぶりに川崎駅に降り立った。
駅前は風景が様変わり。特に西口は、昔は東芝の敷地が広がっていたことしか記憶に残っていないのだが、立体遊歩道ができ、曲線美の高層ホテルが聳えていて、四半世紀の時代の流れを感じてしまった。
思えば、初めてここ川崎駅を訪れたのは、1976年の秋のことである。
富士通川崎工場での入社試験を受けるために、福岡の地から、初めての飛行機に乗り、羽田からモノレール、国鉄と乗り継いで、川崎駅に到着したのである。
駅の近くに宿を取ったあと、国鉄・南武線で、武蔵中原にある翌日の試験会場(富士通川崎工場)の場所を確認しに行った。
当時の南武線の車両は、茶色のガッチリした一昔前の古い型の車両だったのを憶えている。SLの後ろに繋いでいた客車の様なイメージの車両である。
◆川崎球場
初めて川崎球場に来たのは、会社の友人に誘われて来た広島カープ−大洋ホエールズ戦である。
福岡生まれの私は、勿論、ライオンズファンだったので、セ・リーグの野球には余り興味が無かったのだが、広島出身の同期入社の友人の、熱い誘いを受けて観戦することになったのである。
かなり後の話であるが、西武・石毛宏典(いしげひろみち)選手が、新人の開幕戦デビューを華々しい成績で飾ったのも川崎球場である。3塁側スタンドで手に汗握って観戦したが、あの夜は興奮した。
今回、川崎球場を訪れてみたが、野球場はもう無く、長方形フィールドの競技場に生まれ変わっていた。
【2022/11/26追記】
今、グーグル・マップを見ていたら、何と、川崎球場は、「富士通スタジアム川崎」に様変わりした様である。富士通さん、やりますネェ(笑)。
◆川崎大師
川崎大師は、今回が初めての訪問である。
言われてみれば当たり前なのだが、弘法大師を祀ってあるから川崎大師と呼ぶんですなあ。
仲見世で、足腰のお守りが並んでいたので購入。これから歩く時にはリュックに付けて歩くことにした。
京浜急行・小島新田駅より電車を利用して、多摩川近くの港町駅まで移動。
◆多摩川
第一京浜(国道15号線)の橋を渡り、東京都側の土手伝いに多摩川を遡る。
青空の下、水量豊な多摩川の流れと、広がる河川敷を眺めながらのウォーキングはとても気持が良い。
遙か遠くには、新川崎のツインタワー、そのさらに奥にはNECの高層ビルが見える。
しばらく歩くうちに、1年前に歩いた国道1号線と交差。つい、この前のようだが、あれからもう1年が経ったのだなあ。
丸子橋まで遡ったところで、再び神奈川県側に渡り、等々力緑地を目指した。
◆JR南武線界隈
等々力緑地のところで多摩川に別れを告げ、川崎市中原区の町に入る。
等々力緑地には、Jリーグ・川崎フロンターレのホーム・等々力競技場がある。
等々力緑地を抜けてしばらく歩くと、JR南武線にぶつかる。
南武線は、私にとっては縁の深い路線である。就職してから沼津に転勤になるまでの6年間は、ほぼ毎日、南武線に乗って通勤したものだ。武蔵中原の駅前には、富士通川崎工場がある。工場とは言っても、広い庭と建ち並ぶ建物は病院の様な外観である。実際、唐沢寿明主演のテレビドラマ「白い巨塔」では、大学病院として撮影に使われた。
南武線に沿って、昔懐かしい武蔵溝の口まで歩く。溝の口の変わり様は、何とも説明できない程であり、昔の道がどう走っていたのかを思い出せないほど町中が変貌していた。私の知っている溝の口はもう消え去り、別の街があった。ちょっと淋しい気分である。それでも、あの風呂桶を買ったスーパー「サンコー」は、マルエツと名を変えて、今でも残っていた。
◆第二江田寮
東急・田園都市線に乗り、昔住んでいた寮のある荏田の町へ。
江田の駅前は、頭上を東名高速道路が走っているが、昔は駅以外には何もなかった。
駅を降りてみると、レストランやマクドナルドまでもが進出しており、時の流れを感じずにはいられない。
国道246号線沿いに、寮のあった荏田町に向かう。
国道を外れてからの道の記憶が今一つはっきりしないが、いつも通っていた筈の近道の階段が無くなっていた。坂道を登りながら、おぼろげに残る記憶を辿って寮のあった場所に着いた。
裏手が竹林だったので、場所は間違いないと思うのだが、記憶にある寮の建物はそこには無かった。
1977年に入社した当時は、6畳1間に2人という不自由な生活ではあったが、思い出すと懐かしい。その寮も、今や存在しないとは、これまた淋しい結果であった。
十年ひと昔とは良く言ったものだが、四半世紀は三つ昔、本当に変わってしまった。川崎の旅はセンチメンタルジャーニー。
【2022/11/26追記】
今、上の写真を見て気付いたのだが、白いマンション風のビルの壁に「〒」のマークが付いているが、これは、昔、郵便局があった(今もある?)場所なのかも知れない。入寮した日(1977/3/30)に、口座を開いて、初任給が出るまでの間の生活費を預金した郵便局である。
以下は、以前に書いてブログに載せた文である。
上に書いた「風呂桶」、「郵便局」の話が出て来る(笑)
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風呂桶(おけ)
1977年3月30日(水)雨。この日、住み慣れた福岡を出て、横浜市緑区荏田(えだ)にある会社の寮に入る。私の社会人としての原点である。
寮に着くと、部屋(6畳二人部屋)には、家から送ったダンボール箱二つと会社に注文しておいた布団上下、毛布一枚が届いていた。早速、近くの郵便局を探して口座を開き、父から持たされた一月分の生活資金20万円を貯金。一ヶ月分の寮の食券(朝食、夕食)を買って、取りあえず食料は確保。その夜、風呂に入ったら、石鹸と風呂桶は各自揃えるという事が分かり、その日は、取りあえずタオル1本だけで入浴を済ませた。翌日、田園都市線の武蔵溝の口に飛んで、サンコー(スーパーマーケット)で歯ブラシ、石鹸とともに、緑色のプラスチックの風呂桶を買い求める。
以来26年、今でも我が家では、このプラスチックの風呂桶を使っている。底にはマジックで「○○」の2文字(苗字)が書かれていて、(もっとも今では殆ど消えてしまったが)、さもない安いものなのに、どこも傷んでなくて今でも現役である。きっと、あと12年、私の現役引退までは一緒に頑張ってくれることだろう。
私の社会人生活と共にある風呂桶の話でした。
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因みに、上に書いた風呂桶(以下の写真)は、本日(2022/11/26)現在も、入浴時に私が使っている現役(45年8ヶ月目)の風呂桶である(笑)。