國體物語(1) 世界國體天皇 堀川辰吉郎(その一)


國體物語(1) 世界國體天皇 堀川辰吉郎(その一)
初稿:2021年7月15日(木) くもり、時々、晴れ
更新:2021年8月30日(月)
 
ネットを眺めていたら、面白い動画を見つけた。戦略思想研究所)中森護代表が語る動画である。以下。
 
 満州国と天皇家の隠されたつながり|中森護
www.youtube.com
 
この動画の中に出て来る人物、「満州国の建国を決めたのはこの人だ」と中森さんが言われている人物、それが堀川辰吉郎(下の写真)である。
 
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堀川辰吉郎
 
落合莞爾先生國體ワンワールド史観に関わりを持っている人なら、堀川辰吉郎の事は多分知っていると思うが、表の歴史しか知らない殆どの日本人にとっては聞いた事がない名前だろうと思う。Wikipediaを見ても、ペテン師扱いされているくらいの存在なのだから。
 
しかしながら、中矢伸一氏の著書「日本を動かした大霊脈」には、國體関連の話こそ出て来ないものの、偉大な実績を残された真実の堀川辰吉郎像が描かれていると思う。
 
上に挙げたWikipediaには、『明治天皇の落胤とする風説と書かれているが、確かに風説であり、堀川辰吉郎は明治天皇の落胤では無い。堀川辰吉郎自身も、自分を「明治天皇のご落胤」だとは決して発言していない。それが真実だからである。
 
堀川辰吉郎の娘である国際政治評論家の中丸薫さんが、「自分の父・堀川辰吉郎は明治天皇の子だ」と言われているそうであるが、どうやら中丸薫さんご自身も真実をご存じないらしいのである。但し、中丸薫さん自身が ご存じない真実とは、父親である堀川辰吉郎の事ではなく、堀川辰吉郎の父親と言われている明治天皇の方の真実である。
 
実は、122代 明治天皇自身が、表向きの歴史で言われている『121代 孝明天皇の皇子・睦仁親王』では無いのである。堀川辰吉郎は、明治天皇の皇子ではなく、本物の睦仁親王の皇子なのである。この事を中丸薫さんは知らないらしいのである。
 
中丸薫夫妻(夫は、俳優だった故・中丸忠さん)は、和歌山の落合莞爾先生宅に泊まった事もあるそうであるが、落合先生が、そういう話(薫ちゃんは明治天皇≠睦仁親王だと知らなさそうという話)をされていた。
 
因みに、122代 明治天皇は、即位前は周防・田布施の地(現在の山口県熊毛郡田布施町辺り)で奇兵隊の一員であった大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人なのである。正しくは大室寅助(おおむろとらすけ)と言うらしいが。
この大室寅助も、実は、正統な皇位継承権者だったのである。
 
現在も続いている皇室の皇位継承権のルールは、1330年代の南北朝時代に、96代 後醍醐天皇が護持僧の醍醐寺文観ととも策定したものである。具体的には、「後醍醐天皇の皇子である大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王の直系男系子孫【補足1】のみが皇位継承権を持つ」と言うルールである。
そして、このルールは、明徳の和約による南北朝合一のあとの102代 後花園天皇から施行され、今上天皇(126代)に至るまで続いている。さらにこのルールは、表向きの天皇(政体天皇)だけではなく、裏の天皇(國體天皇)にも適用されている。
なお、「政体天皇」「國體天皇」という呼び名は、落合莞爾先生の命名である。勿論、呼び名は無くても「政体天皇(国内政治)」と「國體天皇(國體黄金ファンドの管理運営、外交など)」の役割分担は、かなり昔からあったそうである。
 
國體天皇と政体天皇の各在位期間は一致しないが、堀川辰吉郎が國體天皇だったのは、政体天皇が123代 大正天皇~124代 昭和天皇の時代だったと思う。
 
因みに、ここで言う皇位継承権ルールは、皇室内のルールであり、日本が公議政体となった明治以降の大日本帝国憲法や日本国憲法(現在)での「天皇」の規定とは関係ないし、日本国政体側が口を挟む事でもない。
皇族の方々には日本国籍はなく、従って、日本の憲法や法律は皇族には適用されないため、天皇の日本国との関わり方を「象徴」という形で日本国憲法で規定し、皇族の方々の日本国での各種規定(法律相当)を皇室典範や皇室向けの法律で規定しているものと私は理解している。
 
【補足1】
護良親王の「直系男系子孫」とは、自分の父親、その父親、そのまた父親、・・・というふうに、父親を過去に辿って行けば護良親王に辿り着く子孫と言う意味である。皇位継承権を持つ子孫自身の性別は問わない。現に、江戸時代には女性天皇もいた。ただし、女性天皇の皇子は、父親も護良親王の直系男系子孫である場合(即ち、護良親王の直系男系子孫同士の男女が結婚した場合)を除き、護良親王の直系男系子孫では無くなるから皇位継承権は無い。
秋篠宮文仁親王の内親王である眞子様、佳子様も、護良親王の直系男系子孫であるから、政体の法律(皇室典範)上はともかく、皇室内の皇位継承権ルール上は、お二人とも皇位継承権を持つのである。
なお、敬宮愛子内親王は、眞子様、佳子様とはちょっと事情が異なるらしく(ちょっと、ここでは書けない)、皇位継承権は、・・・。
因みに、中丸薫さんの父親は堀川辰吉郎、その父親は睦仁親王と続き、最後に護良親王まで辿り着くし、落合莞爾先生も、父親、その父親と辿って行くと、二代目・井口左近に辿り着く。二代目・井口左近の父親は護良親王であるから、結局、落合莞爾先生と中丸薫さんは、共に護良親王を起点とする直系男系子孫であり、皇室内ルールとしての皇位継承権があると言う事である。勿論、お二人は遠い親戚という事である(笑)。
 
話を大室寅助に戻すが、大塔宮護良親王の第一皇子であり、父・護良親王の命により周防国に派遣されていたのが興良(おきよし)親王であるが、明治天皇となった大室寅助は、興良親王の直系男系子孫なので、皇位継承権があったのである。
 
それから、睦仁親王については、これまで121代)孝明天皇の皇子とされて来たが、つい数ヶ月前に、落合莞爾先生が、そうでは無かったと訂正された。孝明天皇には皇子がいなかった事が分かったそうなのである。
 
実は、118代)後桃園天皇に皇子がいなかった事から、皇位継承者として、閑院宮系(師仁もろひと親王)と伏見宮系(貞敬さだゆき親王)の両候補のうち、閑院宮師仁親王を選んだが、その際に、閑院宮血統の天皇は3代までと言う話が付いていたらしいのである。
これは私の推測であるが、閑院宮師仁親王(光格天皇)の父親である閑院宮典仁(すけひと)親王は、ベルギー王室の血統であり、ベルギーから日本に渡ってこられて閑院宮家の籍に入られた方なので、後桃園天皇の後継天皇を決める際に、ベルギー王室血統の天皇は以降の3代までと予め条件を付けていたのではないかと思う。
そして、119代)光格天皇(師仁親王)、120代)仁孝天皇、121代)孝明天皇と、閑院宮血統(ベルギー王室血統)の天皇が3代続いたので、孝明天皇に皇子がいてもいなくても、閑院宮血統(ベルギー王室血統)の天皇は孝明天皇までだった様である。結果的には、孝明天皇の後は、大室系血統の122代)明治天皇、123代)大正天皇と続いている。
124代)昭和天皇は、再び欧州大塔宮(ベルギー王室)血統である。大室血統の天皇は2代までと決められていたそうなので、大正天皇の後は、ベルギー王室血統の昭和天皇が即位したのだと思う。多分、この時期には、既に皇室血統バンクをベルギー王室血統に移行したのではないかと思う。現在は、皇室血統バンクはベルギー王室血統に一本化したと言う話を伺っている。
120代)仁孝天皇と、121代)孝明天皇は、共に偽装崩御した後に血統的故郷であるベルギーに戻られたそうであるが、そのどちらかの直系子孫(孫か曾孫あたり?)が裕仁親王(昭和天皇)だそうである。更に、昭和天皇の第一皇子(公になっていないが、現上皇様の兄上)は生後すぐにベルギーに移られたそうだし、秋篠宮家の悠仁親王もベルギーから来られたそうである。
 補足しておくと、欧州大塔宮血統(ベルギー王室、オランダ王室、ルクセンブルク王室)、ハプスブルク家血統も、大塔宮護良親王の直系男系子孫の血統である。
 
実は、大正天皇には皇子は一人も生まれなかったそうであり、表向きの4人の皇子は大正天皇の実子では無いそうである。昭和天皇は欧州大塔宮(ベルギー王室)血統、高松宮宣仁親王の父親は國體天皇・堀川辰吉郎である。秩父宮雍仁親王と三笠宮崇仁親王の父親は伺っていないので私は知らない。
 
話を睦仁親王に戻すが、上の話のとおり閑院宮血統は3代で終わりなので、孝明天皇の表向きの皇子とされていた睦仁親王は、同じく皇位継承権を持つもう一つの血統である永世親王家伏見宮の血統ではないかと言うのが、落合莞爾先生の洞察である。
 
話を一番初めの堀川辰吉郎に戻す。
 
少し内容が増えてしまったため、堀川辰吉郎の國體天皇としての実績については、色々と調べてから(その二)で書くこととし、(その一)では、上に書いた書籍に出て来る表向きの堀川辰吉郎のエピソードを書くことにする。
 
彼は、子供の頃に、福岡の玄洋社)頭山満に預けられ、福岡の街で育ったらしい。とにかく、豪快・破天荒な性格であったらしく、子供の喧嘩に口を出したヤクザの親分宅に放火すると言った具合である。
 
上に書いた書籍の中から、彼に関する話を以下に幾つか列記するが、まさに世界國體天皇と言える程の器だった事が窺える。
 
●少年時代は福岡で過ごしたが、悪さを繰り返すたびに転校するものの、転校先が尽きてしまい、やむなく東京の学習院に転校。そこでも、当時の学習院長だった乃木希典の手を焼かせる存在だった。戸籍上は、井上馨伯の血を受けて生まれた事になっている。
●支那の孫文の片腕として、孫文と共に戦火をくぐり抜け、支那の革命成功のために命を張って奔走。
●奉天の世界紅卍字会の名誉会長に推挙され、日本の軍閥と争いながら、日中の架け橋となって平和運動に尽くした。大本教の出口王仁三郎とも深い繋がり。
蒋介石鳩山一郎首相とも親交
●終戦直後、GHQに逮捕されるが、取り調べは途中で立ち消えとなり、GHQ側の丁重な詫びとともに釈放された
●世界各国を周遊し、各国の支配者等と親交を結ぶ。支那では毛沢東、劉少奇、宋慶齢(孫文の未亡人)、朱徳。台湾の蒋介石、米国のルーズベルト大統領、同夫人(夫人とは年来の親友)、英国のジョージ五世、チャーチル首相、ソ連のスタ-リン首相、インドのプラサド大統領、ネール首相、
●国内では、高松宮宣仁親王(実は、堀川辰吉郎の実子)、三笠宮、久邇宮朝融王(香淳皇后の兄)、鳩山一郎、吉田茂、岸信介、大野伴睦と親交。
●皇居には、いつでもフリーパス(宮内庁事務官の証言)
●放浪生活数十年の間に、世界各国で50人に近い妻を娶り、大勢の子供を作った。
●彼の正妻は九州の炭鉱王・貝島太助の姪。息子達の多くは各国で一流の経営者。娘達の嫁ぎ先は、富士製鉄社長・永野重雄の長男、支那財閥・張群の長男など。
●張作霖と親交、息子の張学良とは兄弟の契りを交わした。(実は、張学良は張作霖の実子で無いらしい。落合先生談)
●戦後の昭和25年、尾崎咢堂(行雄)翁の依嘱を受けてジュネーブの世界平和連邦会議に出席、堀川辰吉郎の演説が圧倒的人気を得て、「サムライ・ホリカワ」の異名を轟かせた。以下は、演説の内容。(書籍より引用)
~引用開始~
「私の叫ぶ世界平和は、皆さんと違って真実だ」
 
会場をうずめる各国代表をみまわしながら、辰吉郎は、声高らかにこう叫ぶ。
 
「なぜなら、私は世界中の多くの女性と関係した。そのため私の落し胤が、中共にもソ連にも、そしてアメリカにもフランスにも、その他二つの対立する世界の両側の至るところに、すくすくと成長しているのだ。・・・・・だからもし、二つの対立の緊張が破れて、世界各国が相争う時は、私の血が互いに殺し合わなければならない。
故に私の平和への願いは、人類の血をかけた願いなのだ。いわば人類の声だ。そのためにも、人類は一つでなくてはならないのだ。」
 
唖然とした表情で聞いていた聴衆は、一瞬の静寂の後、湧きかえるような拍手と歓声を辰吉郎に送ったという。

~引用終了~
 
●辰吉郎の娘の一人・芳子は、終戦時に双子の姉妹を抱いてマカオを脱出し帰国して辰吉郎のもとに戻ったが、その後、来日中のカーペンター博士と知り合い結婚。ところが、家族で米国に渡る際に、前夫の双子の娘達の入国許可が当時の移民法に抵触して認められないという問題が発生。この親子の生き別れの話が米国政財界の上層部に伝わり、ルーズベルト元大統領の夫人が陣頭に立って「非人道的な移民法は廃止せよ」と運動開始し、その二年後に目出度く移民法改正案が成立して、引き離されていた双子の娘達が日米養子縁組の適用第一号となり、米国に迎え入れられた。