昭和天皇(皇太子殿下時代)の欧州外遊記


昭和天皇(皇太子殿下時代)の欧州外遊記
2021年5月23日(日) 曇り、のち、晴
 
昭和天皇は、皇太子(二十歳)の時に半年間(3月3日~9月3日)の行程で欧州を外遊されているが、その時の事を記した書籍が大正時代に出版されている。
 
私は、その外遊記が出版されている事は勿論のこと、外遊された事自体も全く知らなかった。
 
それらの事を知ったのは、以下のメールを読んだためである。
 
 インペリアル・アイズ無料メール 神格天皇を國體の中心とする日本人の責務【ブログ更新】
ubaido.hatenablog.com
 
二千年以上続く世界最古の王室である日本皇室において、日本から外に出られたのは、(表の歴史上では)昭和天皇が初だったそうである。
 
(表の歴史上では)とわざわざ書いたのは、裏の歴史(真実の歴史)では、ずっと前にも数多くの皇族が海外に出ているという事実を、落合莞爾先生より伺って知っているからである。
以下に、私が認識している範囲で、表の歴史には出て来ないが陰で海外に出られた皇族の方々を挙げてみる。
 
【0】欠史八代の時代
 
羅津((らじん)、現在の北朝鮮の羅先(らそん)辺り)に渡った皇族は欠史八代(2代・綏靖(すいぜい)天皇~9代・開化(かいか)天皇)の時代(1~2世紀)から何人もいた。羅津は、1万年前に始まるウバイド文化(メソポタミア文明の前身)の頃から採取・蓄積を続けて来た國體黄金を隠してあった場所であり、これを護るために8代・孝元(こうげん)天皇の第三皇子であった彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)が羅津に渡り、八幡(はちまん)騎馬隊を創設したのである。「八幡」と言うのは、八本の幡(はた)を立てた事から着いた名前である。現在でも日本全国にある八幡神社の「八幡」の語源は、この八幡騎馬隊である。後に出て来る源氏の八幡太郎義家は、源義家が羅津に行っていた時代があるからではないかと思う。
因みに、彦太忍信命は、出雲の国譲り神話に出て来る八重事代主(やえことしろぬし)のモデルになっている人である。
 
まあ、当時は満洲地区は日本の一部だったそうなので、「国外」としてはカウントしないという意味で【0】としている。
それから、5~6世紀の聖徳太子が偽装薨去して中東に入り、マホメット(ムハンマド)となってイスラム教を開いた可能性を説く落合莞爾先生の仮説も、一応、ここではカウントしないでおく(笑)。
 
【1】軽皇子(かるのみこ)
 
最初に海外に出た皇族は、36代・孝徳天皇の皇子であった軽皇子だと思う。
軽皇子は、國體黄金を携えてアルザスに入り、メロヴィング朝フランク王国のアウストラシアの執権・ピピン二世と入れ替わってフランク王国に入った。
その何代か後の子孫であるカールが、西ローマ帝国(後の神聖ローマ帝国)を創建している。「カール」、「カロリング朝」などは、軽(かる)から来ている。
 
【2】フリードリッヒ三世 (護良親王の直系男系子孫)
 
96代・後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王の偽装薨去前の皇子(紀伊国調月(つかつき)・井口左近の娘との間の第三男子)が欧州に渡り、その子もしくは孫がハプスブルク家のエルンスト鉄公と入れ替わってハプスブルク家に入ったが、そこでポーランド王女でマジャール人のツインバルカ・マゾヴィエツカとの間に生まれたのが、神聖ローマ帝国の世襲皇帝をハプスブルク家から出すこととしたフリードリッヒ三世である。
 
【3】ベネルクス三国の王室 (護良親王の直系男系子孫)
 
護良親王は、その後、中先代の乱(1335年)の最中に鎌倉で自分を淵野辺義博に偽装殺害させたあと、舟で房総に渡り、そこから陸路で奈良・西大寺に入って90歳近くまで生きていたそうであるが、西大寺時代に生まれた皇子達が欧州に渡ってベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の王室に入っている。
護良親王の表向きの薨去(実は偽装薨去)の後に生まれた皇子達なので、当然ながら表の歴史上は存在しない皇子達である。
  
119代・光格(こうかく)天皇の父である閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王は、そのベルギー王室から日本に渡って来られた方だし、昭和天皇も、実は大正天皇の実子ではなく、ベルギー王室から日本に渡って来られた方である。
そして、昭和天皇と香淳皇后の間に生まれた本当の第一皇子は、生後すぐにベルギーに戻されたそうであり、現在の明仁上皇陛下は、表向きは第一皇子であるが本当は第二皇子だそうである。
更に言うと、秋篠宮文仁親王、紀子妃の間に生まれた第一皇子とされている悠仁(ひさひと)親王も、実は秋篠宮文仁親王の実子ではなく、ベルギー王室から来られた皇子だそうである。
ワンワールド國體皇室の現在の血統バンク(皇位継承権を持つ方々の集合体のこと。勿論、正式な名称ではない)は、現在はベルギーと日本の二本立てになっているそうである。また、世界國體天皇については、戦時中は堀川辰吉郎(121代・孝明天皇の実孫)が世界國體天皇だった事は聞いているが、現在の世界國體天皇はベルギーに移っているそうである。
 
話が横道に逸れたので、元(昭和天皇の皇太子時代の外遊記)に戻す。
 
皇太子・迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)は、大正10(1921)年3月3日に横浜港を出航して欧州への外遊をされたそうである。
因みに、裕仁親王は1901年4月29日生まれなので、20世紀に入った最初の年にお生まれになっている。
 
裕仁親王はベルギー王室のご出身と言う事で、欧州外遊の話が気になり、この「皇太子殿下 御外遊記」という書籍を読もうと思って早速、ネット注文した。
何しろ、大正時代に発刊された書籍なので、古本しか販売されていない。
 
結構な冊数の古本が販売されていたので、その中で保存状態が比較的良い店のものを注文した。買価は3千円+送料であった。発刊当時(大正13年)の定価が3円50銭だから、現在の貨幣価値に換算すると14,000円である。
 
f:id:masuraoo:20210523041052j:plain
「皇太子殿下 御外遊記」
 
書籍が届いたので早速読み始め、128ページまで読み進めたところ、ページの最後の文章と次ページの続きの文章が何とも繋がりが悪いのである。何度か読み直したが、やはりページ間の繋がりが悪い。
変だナァと思い、次ページをよくよく見たところ、129と書かれてあるべきページ番号が「97(実物は漢数字)」と書かれているのである。そして、そのあとが暫く連続のページ番号が続き、112ページの後にロンドンの地図のページを挟み、その次が145ページになっているのである。
即ち、1~12897~112、ロンドンの地図ページ145~末尾 の順になっていたのである。
何と、乱丁(落丁)が発生しているのである。具体的には、以下の乱丁である。
 ●97~112、ロンドンの地図ページ が、書籍の二箇所で重複して綴じられている。
 ●129~144 が落丁
 
取り敢えず、先を読み続けるしかなく、落丁ページの件は忘れる事にしたのだが、やっと古い書籍を入手し、旧書体、旧表現の読み辛い文書を根気強く読み続けて来たと言うのにのに、僅か16ページとは言え、抜けたまま諦めてしまうのは何とも悔しい。
 
そもそも、こんな古書を戦後生まれの私が読む事になったのも、何かの因縁があるからに違いないという思いが湧いて来て、だったら、キチンと全て読破するしかないと思い、落丁部分を何とかして入手することにした。
 
まずは、駄目もとで、販売元の古本屋にメールを送り、落丁があったので、コピーで良いから落丁ページ部分を送って欲しいと依頼した。
 
どういう返事がくるかと思っていたら、返信メールではなくご丁寧に電話が掛かって来た。在庫が無いのでコピーが取れないとの事である。
そして、落丁本を販売したのは当方の責任なので、返金するとの事。
しかしながら、私は返金が目的ではないので、返金の申し出に対しては答えず、別の本を買い直すとした場合に同じ落丁があったら困るので、他の本での同じ落丁の可能性について店のご主人に聞いてみた。
ご主人曰く、現在は、機械で製本するので落丁は起こりにくいが、昔は手作業で製本しており、各章・節のページ束を階段の様な棚に並べておき、棚から人手で順番に章・節のページ束を取り出して重ねていって製本していたので、棚からページ束を取り出す時に間違った棚から取り出したのかも知れないとの事。なので、古本を買い直すなら、事前に本屋に連絡して、同じ箇所の落丁が無い事を確認してから買った方が良いとアドバイスしてくれた。
更に、知り合いの同業者に在庫が残ってないか当たってみるから、明日まで連絡を待って欲しいとの事であった。
 
そして翌日、ご主人より電話があり、どこも在庫を持ってなかったので残念ながら紹介はできないが、ネットならまだ販売している店が結構ある様なので、こちらから返金したお金で買い直して下さいとの事であった。
それに対しては、結構動いて貰いご主人に対して感謝の気持ちがあったので、「もう半分以上読んでしまったので、返金は結構です」と伝えて電話を切った。
 
上の写真を見れば分かるとおり、書籍が二冊写っている。即、別の店から同じ書籍を買ったと言うことである。二冊目は、函が着いて無かったので価格は1,000円であった。
そして、昨日、落丁部分を合わせて読破した。
 
以下、読んでの感想である。
 
●第一次世界大戦(1914~1918)は、欧州が舞台だったので、日本は直接関係ない(戦ってない)と思い込んでいたのだが、日本からも陸軍・海軍を派遣していた事が分かった。それもあって、裕仁親王の欧州外遊に対する各受入れ国側の大歓迎ぶりがあったのだと思った。
 
●日本人は、日本皇室が世界最古の王室という点については余り「凄い」という意識が無いと思うし、どちらかと言うと日本は西洋に対して後進国であるという思いの方が強いと思うのだが、海外の各国には、2000年を超える世界最古の王室という点に対するリスペクトがかなり強いのだと感じた。
 
●昭和天皇は、国民(臣民、書籍では赤子(せきし))を我が子(赤子(あかご))の様に深く愛しているんだなぁと感じた。
 
●昭和天皇(他の天皇も多分同じだと思う)は、我々凡人の様な損得勘定、利害関係、優劣意識という発想が全󠄃くなくて、常に国民の幸福をまず第一に考えているのだと感じた。それに、自分の事は二の次、贅沢や欲望といった自分自身への欲は律している方だと感じた。
戦後生まれ、民主主義(権利、権利、権利)の時代に育った我々の側の発想で天皇陛下を同様に考えては駄目だと思った。
 
●戦前生まれの日本人が、天皇陛下を敬う気持ちが分かった様な気がする。
 
●でもまあ、我々の子供、孫の世代には、多分、もっと分からないだろうなぁ、皇室の事は。
 
●外遊先は、英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアであるが、私に「裕仁親王はベルギーの出身」という先入観があるためか、ベルギーご訪問の際に他国の訪問時よりも親密感がある様に感じてしまった。
 以下に、外遊記内の一部を引用する。(新自体、新仮名遣いにしている。括弧は、補足を挿入。ピンク色付けは親密感を感じた箇所。)

  引用
白国(ベルギーの事)皇帝陛下は、皇太子ブラバン殿下をご同伴になって、駅までお出迎えになった。
駅内の一室で我が東宮殿下(裕仁親王の事)には白国皇帝陛下と簡単なご挨拶の交換があり、皇帝陛下には供奉員一同に握手を賜った
ご晩餐が終わって夜会に移った。東宮殿下は幾多の知名の人々とご会談遊ばした。殊に皇后陛下(ベルギーの皇后陛下の事)には殿下をよく来賓にご斡旋遊ばされ、数多い貴婦人にも殿下とお話申し上げる機会をお与え遊ばしているのを拝見した。
午前は市の郊外ラーケンなるノートルダム大天主堂の王室の御陵墓にご参詣になって、花環をお捧げになった。
この賢明な両陛下は、実によく我が東宮殿下をお労りになって、お世話下さった件は、畏れながら臣下たる我々の深く感謝し奉る所であった。
皇后陛下は東宮殿下の未だお年若くあらせられる所から、或いは珍しい花の側にお誘いになって、その説明を遊ばされたり、或いは面白いお話を遊ばしてお慰めにもなった。