2014盆帰省


2014年盆帰省
2014年8月9日(土)〜8月18日(月)
更新:2024年1月26日(金)
 
今年も旧盆に福岡に帰ってきた。
今年の旧盆は、三が日と週末の土日が連続するため、世の中は5連休のところが多くなる。
車で移動する我々としては、帰省のピークを避けたいので、その分 帰省期間が長くなる。
と言う事で、今年の盆帰省は、8月9日(土)の夜から8月18日(月)の午前中に掛けての9泊10日となった。
 
■往路(8月9日夜〜8月10日朝) 嵐(台風)
 
夕方の5時半、車で三島の自宅を出発した夫婦は、まずはJR三島駅へ。
もっと早く三島に帰ってくると予想していた長女が、出発間際になったため、三島駅で長女を拾って、そのまま九州に向かうことにしたのである。
 
伊豆縦貫道から東名高速道に乗り、西へ。
運転の快適さを考えるなら、新東名高速道の方が良いのだが、今回は、浜松西ICで途中下車して、二男のアパートに寄る必要があったので、東名高速道にしたのである。
なお、転職して新しい仕事を始めたばかりの長男は、「休み無し」で頑張っているため、今回の帰省には参加しない。
 
浜松で二男を拾ったあと、再び、浜松西ICより東名高速道に乗り、九州を目指す。
 
今年の帰省(往路)は、ピーク(金曜夜〜土曜日中)を避けるために、出発を土曜の夜と決めたのだが、結果的には、これが裏目に出てしまい、「大型の台風11号の日本縦断進路」に向かって走る事となってしまった。
とにかく、台風よりも先に、「台風が日本列島を縦断する予想コース」よりも西側に抜けてしまいたかったので、今回は、途中での仮眠は諦めていた。
 
静岡県内では穏やかな天気だったのだが、愛知県に入ると風雨が強くなり、懸念はしていたが、予定コースである東名阪自動車道が、早々と「通行止め」になってしまったため、やむなく、昔のコースである名神高速道を走ることに。
 
多賀SA(滋賀県)でトイレ休憩したあと、関西を走る頃には、一旦、風雨が収まったので、「台風の縦断進路を抜けたか?」と思ったのだが、龍野西SA(兵庫県)で運転をカミサンに代わったあと、岡山県の手前に差し掛かった辺りで、再び、雨と風が強くなった。
それでも、広島県に入ると風雨が収まったので、今度こそ、「台風の縦断進路」を抜けたと思い、宮島SAで仮眠を取ることにした。
 
眠る前に、SAにある鳥居の記念写真を撮ったのだが、車に戻って来る頃には、再び風が強くなって来たため、仮眠は中止し先を急ぐことにした。
 
1 往路 山陽自動車道・宮島SA
 
 
3 宮島SAから瀬戸内海側を望む(勿論、真っ暗)
 
 
5 宮島SAのお土産
 
しばらく走り下松(くだまつ)SA(山口県)まで到達したところで、今度こそ、「台風の縦断進路」よりも西側に抜けた様である。
小腹が空いたので、ラーメンを食べてから出発。運転はカミサンである。
 
6 山陽自動車道・下松SAの下松牛骨ラーメン
 
下関で運転を交替することにしていたのだが、助手席で眠りから覚めると、車はもう、関門橋を越えて福岡県を走っていた。
 
九州自動車道太宰府ICを下りたところで、カミサンから運転を代わる。
目指すは、父の墓西部西日本霊園)である。
 
盆帰省の際には、実家に行く前に、先に墓に寄って「草むしり」をするのが、ここ数年の習慣になっているのである。
新しい車での帰省は初であり、カーナビの目的地に墓地を未だ登録してなかったので、携帯の地図ソフトを見ながら、現地に無事到着。福岡市西部の山の中腹にある墓地である。
 
小雨が降っていたが、傘を差して草むしりを始める。
 
7 父の墓 草むしり
 
墓地をあとに、実家に到着したのは朝の8時頃であった。
 
■天神買い物/大学同窓会(8月11日) 晴れ
 
昼食のあと、三島へのお土産を買いに、夫婦で天神に出掛ける。
お土産は何時も決まっていて、
 ●天神地下街にある「ふくや」で辛子明太を、
 ●福岡三越で「福紗屋(ふくさや)のカステラ」を
宅急便で送って貰う。到着日は、これも、三島に帰還する日の翌日と決まっている。
 
買い物のあとは、自由時間。
今回は、寄ってみたい店があった。私は、facebook(FB)で「福岡のグループ」にもメンバ登録しているのだが、そのグループ内で紹介されていた「甘味処」に、是非、行きたいと思っていたのである。
それは、福岡三越の6階にある「古蓮(これん)」と言う店である。
ここの「ミルク金時」の写真をFBで見て、どうしても食べてみたいと思った次第である。
 
店内は、殆ど女性客であり、満席に近かったが、1席だけ「空き」があった。
私が注文したのは、勿論、「ミルク金時」、カミサンは、「抹茶白玉ぜんざい」である。どちらも実に美味かった。
 
8 福岡三越6階にある甘味処「古蓮」
 
9 下に見えるのは国体道路。道路の左側は大丸デパート
 
10 ミルク金時
 
11 抹茶白玉ぜんざい
 
12
 
天神でカミサンと別れ、博多駅に向かう。今夜は、35年振りに、大学のクラスメイトと会って飲むことになっているのである。
博多駅への経路は、地下鉄で行くのが一番楽であるが、この日は、集合時刻までには時間がたっぷりあったので、「福岡の街の変わり様」を肌で感じるべく、歩いて行くことにした。
距離的には、大したことはない。
 
天神から国体道路を東に進み、キャナルシティー博多の先で右折すれば、突き当たりが博多駅である。
歩いて行くうちに、那珂川(なかがわ)に差し掛かった。
 
那珂川は、福岡市の中心部を流れる川であるが、全国的には、那珂川と言う川の名前よりも、川の中に出来た中洲の方が圧倒的に有名である。
町の名前は、その名もズバリ「中洲(なかす)」である。福岡の歓楽街、川沿いに屋台が並ぶ街である。
那珂川には、この大きな「中洲」があるため、那珂川は、「中洲」の東側と西側に分岐して、まるで別の川の如く流れている。
それにしても、今回驚いたのは、東側の川が、全く濁ることなく透き通っていたことである。
私が子供の頃の那珂川と言えば、黒く濁った川であったが、半世紀のうちに、ここまで浄化された様である。
 
13 那珂川(中洲の西側)とキャナルシティー博多(対岸のビル街)
 
14 那珂川(中洲の東側)がこんなに澄んでいるとは驚き!
 
15
 
やがて、数年前にリニューアルされたJR博多駅ビルに到着。
まずは、「筑紫口」のヨドバシカメラへ。
昨年、兄よりプレゼントされた腕時計が、スリムになったせいか(いや気のせい)少し緩くなったので、ベルトの長さ調節をして貰うためである。
 
16 JR博多駅
  
時間調整のために、ヨドバシカメラで各階を散策したあと、同窓会の店に向かった。筑紫口側にある「海風土(しーふうど)」と言う海鮮料理の店である。
 
今回の集まりは35年振りであるが、キッカケはfacebook(FB)である。参加者6名のうちの半数が、FB友達としてFBを介して、日頃から情報交換しており、そこで、今回の集まりの話が持ち上がったのである。
 
クラスメイトと言うのは、九州大学理学部数学科の1977年卒業生である。当時のクラスは約40名だったので、その15%が参加したことになる。
 
場所の設営は、福岡在住と言う事で、九州大学教授のSH君が引き受けてくれた。
ただし、飲みながら聞いた話によると、実際には、SH君が多忙で準備が未着手だったため、大分県在住の高校校長であるMI君が、SH君に、協力者を求める様にアドバイスし、同じく、福岡在住の福岡大学教授・IS君に協力して貰ったらしい。
 
参加者の残り3名は、滋賀県草津市在住のIBMに勤めるMH君、横浜市在住の元IBMでリタイヤしたTO君、三島市在住の私である。
6人中、リタイヤしているのはTO君と私の二人。校長のMI君は来年3月が定年、SH君とMH君は65歳定年、IS君は70歳定年だそうである。
 
話はすぐに大学時代にタイムスリップし、楽しいひと時を過ごすことが出来た。
これからは、定期的に集まろうと言う話がまとまり、MI君が、取りまとめ役を買って出てくれた。
 
17 数学科同窓会の店「海風土(しーふうど)」 博多駅筑紫口
 
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20 左から、SH君(九大教授)、MI君(大分県宇佐高校校長)、MH君(IBM)、IS君(福大教授)、TO君(元IBM)、私(元富士通)
 
21 左から、TO君(元IBM)、MH君(IBM)、IS君(福大教授)、MI君(大分県宇佐高校校長)、私(元富士通)、SH君(九大教授)
 
■お盆の準備(8月12日) 晴れ
 
午前中に、玄関の提灯と仏壇の両側に置く提灯を組み立てる。これは毎年、私の役目である。
その他に、床の間の掛け軸も「お盆用」に替えるのだが、今年は、前日に済ませていた。
仏壇の飾り付けは、カミサンと母の仕事である。
 
家の中の準備は朝のうちに済み、母は、この日は一日「デイサービス」に行く日なので、我が家の家族4人で門の前に並び、母が迎えの車で出発するのを見送る。
いつもは見送る人などいないのに、この日は、4人がズラリと並んで見送ったので、照れくさそうな母であった。
 
10時過ぎに実家を出て、家族4人で天神へ。お盆の準備の買い物と、子供の買い物が目的である。
連日の「天神詣で」であるが、市営地下鉄七隈線が開通してからは、僅か15分で天神に出られるので、気軽に出掛けられる様になった。
 
二男の買い物は、来年から社会人と言うことで、岩田屋(デパート)で靴を1足購入。
長女は、気に入る服やバッグがなく、買い物は見送り。
ランチは、結局、いつもの様にソラリアステージで取り、子供達は、先に実家に帰って行った。
あとは、夫婦で、お盆の「お供え物」の買い物である。大丸の地下で果物を買ってから、帰宅した。
 
22 お盆のお供えが完了した仏壇
 
23
 
24 お盆の「掛け軸」は、いつもコレ
 
■迎え火(8月13日) 晴れ
 
この日のお昼は、車で「牧のうどん」を食べに行くことにした。
以前は、毎年帰ってくると、「牧のうどん」を食べていたものだが、ここ数年は、時間がなくて食べに行けてなかったので、久しぶりの事である。
「牧のうどん」は、福岡でチェーン店展開をしている店であるが、実家から一番近い店舗は、福岡大学の近くにある店舗である。
 
12時前に行ったにも関わらず、相変わらずの大繁盛であり、満席であった。
少し待ってから席に着き、私はごぼう天うどんを注文。
 
「牧のうどん」に限らず、博多のうどんは、「讃岐うどん」とは対照的に、腰が無いのが特徴である。
まあ、私に言わせれば、プツンと噛みきれる食感がうどんの醍醐味であり、餅の様に噛んでも噛みきれない(これを「腰が強い」と言うのだそうだが)讃岐うどんの何処が美味いのか全く理解できない
(「うどん」を含め、麺類は好きなので、決して「讃岐うどんが不味くて食えない」と言ってる訳ではない。本場・讃岐まで行って、開店前から並んで食べた事もあるし、出来立てのうどんが美味しかった事も憶えている。ただ、あの「プツンと噛み切れない麺(=餅の様な食感の麺)」を「腰があって」美味いと言う人の事が理解出来ないと言ってるだけである。)
 
牧のうどんは、時間が経つと、麺が汁を吸って膨れる。だから、食べても食べても減らない様な感覚になる。
そして、店の方も、麺が汁を吸うことを想定していて、各テーブルに「汁」の入ったヤカンを置いている。
「ツユの追加は自由」と言うことである。
これは何を意味しているか?
ツユを吸う麺が美味いんだと言う事を堂々と宣言している訳である。
恐らく、「讃岐うどん派」の人達は、「延びた麺」と言って受け入れないのだろうが、この美味さが分からない人は、それで良い。
 
因みに、「ラーメン屋」は、日本全国、何処の町(市町村)に行っても何軒かは在ると思うが、全国チェーン展開している「丸亀製麺(讃岐うどん)」を除けば、「うどん屋」がある市町村は殆ど無いのではないかと思う。
讃岐(讃岐うどん)、富士吉田(富士吉田うどん)、伊勢(伊勢うどん)等を除けば。
福岡市には、「うどん屋」が結構多い様である。「博多うどん」の店である。何と言っても、日本の「うどん発祥の地」は博多なのだから。
 
夕方には、兄の家族が実家に来て、いつもの様に、みんなで迎え火を焚いて仏様を迎えた。
 
25 牧のうどん
 
26 いつ来ても満席
 
27 入れ放題のネギ
 
28 ごぼう天うどん
 
29 ヤカンの中は追加自由のツユ
 
■親族の宴(8月14日) 雨
 
毎年、旧盆と正月には、母を頂点とする親族が集まり、宴(うたげ)を催す。
曾孫まで含めて、4代の親族が集結する。今回は18名が集まった。
以前は、実家に集まっていたのだが、大人数の料理の準備と後片付けが大変なので、今年の正月からは、居酒屋で行うことにした。
福岡大学近くの「番屋」という居酒屋である。
 
この日は、菩提寺である真言宗別格本山東長寺から、午後2時半に お坊さんが読経に来られることになっていたので、午前中から、義姉と姉が実家に来てくれることになっていた。
 
そこで、「お昼」は、お弁当とパンでも買って来て摘まむことにし、7人で食べるのには十分な量の食べ物を、午前中に近くの店で調達して来た。
ところが、義姉、姉ともに、同じ事を考えて大量の食べ物を買って持参して来たため、実家のテーブルは、食べ物の山になってしまった。
その上、午後には、姪が「クリスピードーナツ」を持って到着したため、食べ物はさらに増加。
夜には、「宴」でご馳走が出るし、せっかくウォーキングで締まってきた身体が、益々、膨らんでくること必至の状況となった。
まあ、世の中、豊になったと言うことだろう。感謝々々。
ちなみに、残ったパンやお握り、ケーキを完食するのに、このあと数日を要した。
 
30 買い過ぎたランチ
 
31 「吉野堂」の季節限定菓子「ひよこのやきもち(能古島甘夏みかん)」
 
32 クリスピードーナツの差し入れ
 
雨のためか、予定時刻を少し遅れて お坊さんが到着。雨の中の「檀家回り」も、さぞかし大変なことだろう。
 
お経の中に「般若心経」も一度だけ出て来たので、どのくらい憶えているかと思い、声は出さないが、お坊さんの読経に合わせて口ずさんでみた。
般若心経は、中学2年の時に覚えた。
その年に、母方の祖父が亡くなったのだが、「初七日」から「四十九日」まで、毎週集まってご詠歌と、「般若心経を7回ずつ」唱えたので、般若心経は7日×7回=49回唱えた訳であり、さすがに耳で覚えてしまったのである。
今回、久しぶりに口ずさんでみたが、45年の歳月は長く やはり、所々の記憶が曖昧になっていた。
 
夕方の5時から、親族が「番屋」に集まり、宴の開始。やはり、福岡の魚は新鮮で美味い。それに福岡の「焼き鳥」も美味い。
福岡の焼き鳥は、「塩」であり、関東の様な甘ったるいタレは使わない。また、「焼き鳥」と言いながら、「豚バラ」を使った串焼きが美味い。
それに、「焼き鳥」の盛り皿には、必ず、生キャベツ(千切りキャベツに非ず)が敷いてあり、ドレッシングが掛かっている。関東では味わえない「焼き鳥」である。
 
この店は、料理が美味しい上に、「儲けを、ちゃんと取っているのか」と心配になるくらい安い。
そして、「締め」に出て来たのが、「シュー生地」で包んだアイスクリームである。
いやあ参った。食べきれない料理は、「折り」に詰めて持ち帰った。本当に良心的な大満足の店である。
 
33 七隈の「番屋」にて
 
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35 焼き鳥の下には、キャベツが敷いてある
 
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40 母の孫たち。右端は曾孫
 
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42 もつ鍋
 
43 デザートのアイスクリーム
 
■送り火(8月15日) 雨
 
この日は静かな一日であった。実家でゆっくりと過ごす。
二男は、翌朝の新幹線で浜松に帰ることになっていたが、長女も、「一緒に帰る」と言い出したので、子供達にとっては、福岡最後の日である。
 
夕方には、また兄の家族が実家に揃い、送り火を焚いて、仏様を送り出した。これで、お盆の行事は全て終了である。
 
正月は、ここのところ、母、兄家族、ウチの家族で一緒に旅行するのが習慣になっていたが、今年の正月は、我が家が、事故による廃車で車が無かったこともあり、3家族合同の旅行はしなかった。
そこで、来年の正月のことを、兄夫婦を交えて相談した結果、合同での正月旅行を復活させることになった。
当初は、雲仙温泉(長崎県)と言う案が出ていたが、雪が降った場合に、「車では登りたくない」という懸念があり、却下。
 
色々と話した結果、「福岡の方から、伊豆まで出て来ても良い」ということになり、私が、ホテルを手配することになった。
 
正月の予約開始は、多分9月以降になると思うので、それまでに、旅行計画を練らなければならない。
兄が、「富士山をまともに見たことが無い」と言っていたらしいので、それも頭の片隅に置きながら、考えたいと思う。
 
■高校同窓会(8月16日) 曇、ときどき、小雨
 
この日は、私は、夜に高校の同期生が何人か集まって、盃を交わすことになっていた。
私が夕食を一緒に食べないので、「夕食はどうしようか」と、母とカミサンが相談した結果、「久しぶりに、兄の家に行ってご馳走になろう」と言うことにした様である。
最終的には、兄夫婦、姉夫婦と合同で外食することに落ち着いたそうだが。
 
同窓会は、天神から少し南に位置する渡辺通りホテルニューオータニ博多で、18:30から開かれる予定であったが、福岡の街を一人歩きをする良い機会なので、早めに実家を出て、懐かしい場所を歩いて周ることにした。
 

(1)福岡県立城南高等学校 私の母校

14時に実家を出発し、まずは、母校の高校へ。実家からは、徒歩5分の距離である。
 
数年前に「全面建て替え」となった母校・福岡県立城南高等学校は、
 ●私の時代には運動場であったエリアに、新校舎が建ち、
 ●昔の校舎エリアが、運動場になっていた。
 ●それに伴い、正門も、敷地の「西側」から「南端」に移動された。
 考慮されたのかどうかは知らないが、結果的に、福岡市営地下鉄・茶山駅からの通学が便利になった。(開校時には、福岡に地下鉄は存在せず)
 
44 城南高等学校の新しい正門と正面玄関
 
45 城南高等学校の昔(1979年当時)の正門と正面玄関
 
46 旧正門の現在
 

(2)福岡市立城南中学校 私の母校

続いて、母校の中学・福岡市立城南中学校へ。城南高等学校の少し北にある。
 
この中学校には、ソフトバンクの孫正義会長や、女優の水野美紀さんも一時期通っていたそうである。
橋本環奈さんは城南中学校の卒業生(2014/3卒業)である。そうか、私(1970/3卒業)の後輩か(笑)。 
 
ちなみに「城南」という名前は、今や福岡市の7区のうちの一つ(福岡市城南区)になっているが、元々、福岡市に「城南」という地名は無かった。
最初に「城南」と言う名前が使われたのは、この城南中学校(校名)が最初である
そして、城南中学校は、決して城の南では無かった。ここで「城」というのは、勿論、黒田官兵衛でお馴染みの「福岡城」のことである。
城南中学校の名前の由来であるが、それは母体の学校と関係している。
実は、福岡市の西部に城西中学校という中学校があり、文字通り、福岡城の「西」に位置する学校であった。
ところが、この学校の生徒数が増えたために、昭和36年に「分校」が出来ることになり、その分校の位置が城西中の「南」であったために、城南中学校と名付けられたのである。
その後、城南中の南に城南高等学校が新設され、さらに中学と高校の間に城南小学校が出来て三つの「城南」が誕生した訳である。
福岡市は、1972年に政令都市となり、「区制」となったが、その後の区再編により、当初の「福岡市西区」が3分割され、その一つが「城南区」になり、ここでようやく地名としての城南が誕生したのである。
 
47 福岡市立城南中学校 正門(現在)
 
48 福岡市立城南中学校 正門(1979年当時)
 
49 福岡市立城南中学校 運動場
 

(3)福岡市早良区昭代 私の生誕地

城南中学校をあとに、国道202号線と国道263号線が交差する荒江四つ角を経由して、昭代町まで歩を進める。
 
ここには、昔、国鉄筑肥(ちくひ)が走っていたのだが、1983年に、博多〜姪浜(めいのはま)間が廃止となり、線路が道路に変わった。
 
実は、私の生誕の地が、ここ昭代町(現:昭代)である。
母方の祖父の家がここにあり、小さい頃は、筑肥線沿いの家に住んでいた。
 
十年振りくらいで「生誕の地」にやって来たが、祖父の家があった場所は「駐車場」に変わっており、建物としては、祖父の家を建て増ししていた「2階部分」と、後に、祖父母の隠居所として建てた「離れ」だけが残っていた。
今は、母方の従兄の所有地になっている。
 
50 荒江四角
 
51 荒江四角 12月の「朝日国際マラソン」のコースにもなっている国道202号線
 
52 昔の「荒江踏切」。現在は道路になっているが、昔は国鉄筑肥線の線路が横断していた。
 
53 私の生誕の地・昭代町 祖父の家があった場所は駐車場に様変わり
 
54 祖父母が隠居していた「離れ」。道路から駐車場に入った場所辺りが、私が産声を上げた場所(笑)
 

(4)祖原(そはら)公園・麁原(そはら) 私の幼少時の遊び場

母方の祖父の家(私の生誕地)から、北方向に緩やかに延びる「上り坂」の先に祖原(そはら)公園がある。
幼少の頃には、毎日の様に遊んでいた公園である。
 
55 祖原公園への坂道
 
56 祖原公園
 
57 祖原公園(1979年当時)
 
さらに、公園から続く登り階段を進むと麁原山(そはらやま)の頂上に出る。
頂上には、昔は、テラスの様な建造物があり、桜の時期には、そこで「花見の宴」が催されていたものだが、今回行ったところ、更地の広場になっていた。
また、昔は、四方の眺望が開けていたのだが、木々が伸びたのか、北側(博多湾側)以外は、景色が全く見えなくなっていたのが残念であった。
 
58 祖原公園から麁原山への登り道
 
59 麁原山山頂
 
60 元寇跡石碑
 
61 元寇跡石碑 1979年当時
 
62 麁原山から見える福岡タワー
 

(5)福岡市立高取幼稚園・福岡市立高取小学校 私の通った幼稚園・小学校(1年~2年)

麁原山を下りて、次の訪問地である高取幼稚園高取小学校に向かう。麁原山からは、徒歩5分程度の距離である。
 
この幼稚園と小学校は、どちらも「福岡市立」であり、私が通っていた頃は、「小学校の校長」が「幼稚園の園長」を兼任していた。
今回、四十数年振りに行ってみたところ、幼稚園の建物が数倍に巨大化していた。
幼稚園が、ここまで大きくなる例は珍しいと思うが、もしかしたら、福岡市立と言う事で、人口増加に伴い、市の予算が付いて、徐々に肥大化していったのかもしれない。
 
高取幼稚園は2年間、高取小学校は、入学から2年の2学期まで通った。
 
63 福岡市立高取幼稚園
 
64 福岡市立高取小学校
 
65 高取小学校 1979年当時(麁原山の山頂から見えていた)
 

(6)九州大学教養部 私の通った大学の一般教養課程のキャンパス(1年~2年前期)

次の訪問地は、福岡市中央区六本松にある九州大学教養部跡地である。
昭代町からは少し距離があるし、小雨が落ちてきたので、バスで移動。
 
九州大学のキャンパスは、私が通っていた頃は、六本松(全学部共通の教養課程)、馬出(まいだし)(医学部、歯学部、薬学部)、箱崎(それ以外の学部)の3地点に分かれていたが、現在は、福岡市西区の伊都(いと)キャンパスに大部分が移転している。
 
当時の六本松キャンパスは教養部であり、入学後の最初の1年半は、学部に関係なく全学生が六本松の教養部に通った(医学部は2年間だったかもしれない)。
ここで、所定の「教養課程」の単位を取得しないと、学部(専門課程)には進級できず、留年となっていた。
 
これまでは、伊都キャンパスに移転後も、六本松のキャンパスには建物が残っていたと思っていたのだが、facebookに投稿されていた記事を読んで、更地になってしまったことを知り、今回、現地(六本松)を見に行くことにしたのである。
現地は完全な更地になっており、新しいアスファルト道路が出来ていた。西側の一角だけは「六本松公園」としてオープンしていたが、それ以外はこれからの再開発となる。
ちなみに、大通り側(北側)には複合商業施設ができ、奥側は弁護士会館など司法関係のエリアになることが決まっているそうである。
 
66 九州大学教養部跡地(六本松)
 
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69 跡地の一部は六本松公園に
 
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72 学生時代に通った食堂
 
73 ミシュランガイド福岡・佐賀 2014特別版にも載っている人気のうどん屋「うどん日和」
 

(7)大濠公園 福岡市民の憩いの場の一つ

九大教養部跡地をあとに、大濠公園に向かう。
教養部時代には、バドミントン部に入っていたが、練習前のランニングで、
  教養部→大濠公園→西公園→大濠公園周回(多い時で6周)→教養部
というコースを良く走っていたものである。10km近くはあると思うが、良く走っていたものである。
 
六本松から大濠公園に抜ける道の途中に、福岡大学附属大濠高等学校がある。スポーツ競技が強い高校であった。
今回、大濠高校の前を通ってみたところ、「巨大な基地か?」と思う様な建物群に変身していた。生徒数も大幅に増えたのだろう。
 
やがて大濠公園に到着。公園の周りの歩行者用道路や施設は、昔とは変わったものの、「濠」は昔のままである。
ゆっくり歩いて濠を一周し、「中の島」も歩いて来た。市民の憩いの場、癒される公園である。
 
74 福岡大学附属大濠高等学校
 
75 大濠公園 南岸より北方面を望む
 
76 大濠公園 南岸より北方面を望む 1979年当時
 
77 大濠公園 中の島と南岸を繋ぐ橋
 
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79 大濠公園から見える福岡タワー
 
80 大濠公園 中の島  1979年当時
 
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83 大濠公園 観月橋
 
84 大濠公園 北岸より南方面を望む 大濠高校(中央)、NHK福岡(左)
 
85 大濠公園 観月橋。 昔、祖父がここから釣り針の付いた糸を沈めて、鰻を捕獲していた。

 
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87 福岡簡易保険局
 
88 大濠公園 福岡簡易保険局 1979年当時
 
89 大濠公園 浮見堂
 
90 大濠公園 浮見堂
 
91 大濠公園 浮見堂 1979年当時
 
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95 大濠公園  1979年当時
 

(8)福岡城趾 余り記憶がないので、初めての訪問かも

大濠公園をあとに、天神に向かって歩く。この道は、昔は国道202号線であったが、今では、「バイパス」だった方が国道202号線になり、こちらは「明治通り」という名前になっている。
昔は、この道に西鉄路面電車の「市内幹線」が走っていたが、私が大学生の時に福岡市内の路面電車の区間廃止が始まり、1979年には全面廃止となった。
現在は、この道の下に福岡市営地下鉄が走っている。
 
しばらく歩くと、右手に福岡城お堀が見え、その先には、福岡城趾潮見櫓(しおみやぐら)が見えて来る。
通り過ぎても良かったのだが、ちょうど、NHK大河ドラマで「黒田官兵衛」をやっているので、立ち寄ることにした。
考えて見たら、福岡市に生まれながら、潮見櫓のところに足を踏み入れるのは、初めてである。
 
福岡城趾としては、「堀」、「石垣」と、この「潮見櫓」、「下之橋御門」が、残っている主なものである。
福岡城には、元々、天守閣は造られなかったという話であったが、最近になって、徳川への忠誠心を表すために天守閣を壊したという記録が見つかったらしく、現時点では、真実がどれかは分かっていないらしい。
 
96 福岡城のお堀
 
97 福岡城趾 潮見櫓
 
98 福岡城趾 潮見櫓
 
99 福岡城趾 下之橋御門
 
100 「朝日国際マラソン」のスタート&ゴールである平和台陸上競技場
 
101 大手門の坂
 

(9)天神界隈 福岡市の繁華街・天神の界隈である。

さらに、明治通りを東に進むと、大名町に入る。
最近、天神西通り、さらに、西通りから西に伸びる道が、若者が集まるエリアになっていたが、これは私が就職して福岡を離れた後に発生した変化であり、まだ歩いたことが無かったので、様子を見に歩いてみることにした。
 
大名町側から東(天神の中心街方面)に向かって歩いたので、最初は、何の変哲も無い普通の道の様であったが、次第に、道の両側に若者が好みそうなレストランやブティックが並び始め、道の向こう側(天神側)から、若者が続々と流れ込んで来るのが目に入った。
この道は、天神西通り(昔は、「こういう通りの名前」は無かったと思う)に突き当たり、岩田屋デパートの前に出る。
 
102 「西通り」と「大正通り」の間にある二つの通りには、若者向けの店が並ぶ(明治通り寄り
 
103 西通りと大正通りの間にある二つの通りには若者向けの店が並ぶ(国体道路寄り) 
 

(10)ホテルニューオオタニ博多 天神の中心街から数百メートル南の「渡辺通り」にあるホテルでの高校同窓会

そろそろ18時近くになったので、渡辺通りの同窓会会場を目指す。傘を差すほどではないが少し雨足が強くなってきた。
会場は、ホテルの地下1階にある「和多半」というお店であった。
参加者の中の一人が、同じビルに同居する会社に勤めているらしく、店と交渉して、コース料理を安くして貰ったらしい。
 
集まったのは10人、日頃から、時々会っている福岡在住の同級生である。
私は、福岡在住ではないが、昨年暮れに、この中の3人と再会して飲んだご縁で、今回誘って戴いた。
何を話したのか良くは憶えていないが、「飲み放題コ−ス」の2時間が「アッ」と言う間に過ぎて、「お開き」となり、そのあと、6人でカラオケに行って来た。
 
104 高校の同窓会会場・ホテルニューオータニ博多の地下1階「和多半」
 
105 城南高校7期有志の同窓会
 

(番外)兄宅、居酒屋「ふく」 私が同窓会で不在中に、カミサンと母、兄夫婦とで夕食会(写真のみ)

 
106 珍しい金魚 (野芥の兄邸にて)
 
107 折り紙作品 (野芥の兄邸にて)
 
108 折り紙作品 (野芥の兄邸にて)
 
109 グァムのお土産
 
110 飯倉の「ふく」にて 刺身
 
111 飯倉の「ふく」にて 鯨さえずり(舌部分)
 
■復路(8月17日〜8月18日) 晴れ
 
いよいよ、三島に戻る日である。
昼間は実家でゆっくりと過ごし、昼寝もして、夜の運転に備える。
夕食を済ませたあと、20:10に実家を出発。福岡大学の先にある堤ICから福岡都市高速に乗ると、沼津(静岡県)までは高速道路の上である。
 
太宰府ICから九州自動車道に入り、古賀SAに寄ってお土産を買う。あとは、ひたすら走るのみである。
 
関門大橋を渡り、中国自動車道(山口県)に入ると、いつもの事ながら、高速道としては急なカーブが続く。
夜間に、高速でこのカーブを走る時は、やはり手に汗を握る。
山口JCT中国自動車道から山陽自動車道に分岐すると、ようやく、カーブが緩やかになるのでホッとする。
 
宮島SA(広島県)までは私が運転し、龍野西SA(兵庫県)までカミサンが運転。
小腹が空いたので、蕎麦を食べ、給油してから運転再開。
 
因みに、三島~福岡間を車(高速道路)で移動する場合、中間点は兵庫県(サービスエリアで言えば龍野西SA~宝塚北SA近辺)であり、出発時にガソリンを満タンにしておくと、途中の給油は、龍野西SA~宝塚北SA辺りのSAで行う事になる。
 
幸いなことに、スピードダウンする様な「渋滞」は全くなかったので、いつもの渋滞ポイントである宝塚をすんなり抜け、吹田JCT名神高速道に分岐。
 
【2024/1/26追記】
新名神高速道が開通してからは、「吹田JCT」、「豊中」、「宝塚」と言った中国自動車道の渋滞区間を走る必要が無くなったので、運転が随分と楽になった。
 
京都の大山崎JCT京滋バイパスに分岐すると、交通量がガクンと減り、快適なドライブとなる。ただし、カーブは少しきつくなるが。
 
瀬田東JCTで再び名神高速道に合流し、暫く進むと草津JCTである。
ここから東名阪自動車道に分岐すると、道幅の広い快適なドライブとなる。
この東名阪自動車道が開通するまでは、名神高速名古屋まで走らなければならず、途中の彦根関ヶ原大垣一宮名古屋と言った渋滞ポイントを抜けなければならなかったのだが、東名阪自動車道が開通してからは、渋滞ポイントは亀山四日市の2箇所だけになり、随分と楽になった。
 
土山SA(滋賀県)でトイレ休憩したあと、運転をカミサンに交替して貰い、先を急ぐ。
 
助手席で少し眠ったが、気が付いたら伊勢湾岸道から東名高速へと進んでいた。
そのあとも、カミサンが頑張って、三ヶ日JCT(静岡県)から新東名に入り、掛川PAまで運転したので、ここで運転を代わる。
 
もう夜が明けて、明るくなっている。既に静岡県内に入っているので、地元みたいなものである。
長泉沼津ICで高速を下り、カミサンの実家に寄って、お土産を渡したあと、自宅に帰還したのは朝の8時過ぎであった。
 
この日は、「時差ボケ」と同じ様な状態であり、時間の感覚が狂ってしまった。
 
112 復路 東名阪自動車道・土山SA
 
113 新東名高速道・掛川PA
 
さて、次の帰省は、本来なら正月であるが、来年の正月は、福岡の方から静岡にやって来る事になったので、来年の6月(身内の会社の株主総会)、8月(盆帰省)である。
6月の帰省は夫婦二人なので、何時ものように交通機関で帰省するし、8月の旧盆帰省の時には、子供3人が全員社会人になっているので、帰省するとしても、各々が、別行動になると思われ、夫婦二人での移動ならば、費用的には「車」と「交通機関利用」とではトントンなので、楽な交通機関利用を選択することになる。
どうやら、今後は、車での帰省は減って行きそうである
 
【2024/1/26追記】
ところが、その2年後(2016年/夏󠄂)には、我が家に「3人目の子供」が誕生し、事情が大きく変わってしまった。
「3人目の子供」と言うのは、愛犬マメちゃんの事である。
さすがに、犬同伴で交通機関(飛行機、新幹線)に乗るのは敷居がかなり高いし、帰省期間中(1週間前後の期間)にペットホテルに預けるのも可哀想なので、結局、その後も、殆どは車での帰省を続けている。
 
[追記]
今回の帰省では、デジタル一眼レフカメラを持って行かなかったので、写真はすべて、iPhoneのカメラで撮影したが、結構キレイに写っている。