城南高校2年に進級
時期:1971年4月
更新:2022年7月10日(日)
2年に進級した。2年7組、担任は英語担当の繁田治男先生。ようやく男女クラスである(笑)。
クラス | 種別1 | 種別2 | 期間 | 担任 |
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2年7組 | 男女クラス | 芸術科目:書道 | 1971年4月〜1972年3月 | 繁田治男先生 |
後ろから | 名前 |
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1列目 | 二村寿登、私、南宏、宮崎潔、宮本祐治、菰田環、□□□□、山崎宏一、山崎努、山本慎二、山本教雄 |
2列目 | 小嶋博道、興膳宏之、桜木喜久、柴田清治、竹之下博隆、土屋伸雄、東光爾英、冨田壮一郎、長岡美貴朗、橋口賢治、波多江信、浜崎徹、福田一樹 |
3列目 | 西沢美津子、野田万里、長谷川節子、浜崎保美、福田□□、横川喜美子、□□□□、和田真理子、真崎法子、石田浩文、伊藤公一、隈部覚 |
4列目 | 上薗弘子、浦雅子、□□□□、織田美代子、木本雅子、清平桂子、繁田治男先生、佐本和子、渋田京子、田中真理子、土屋富美、中村節、中山菜穂子 |
2年の時、クラス編成の際に、1年の時の数学の成績をもとに、成績が良かった人を集めた2クラス(2-1組、2-2組)と、それ以外の6クラス(3組~8組)に分けられた。特待生クラスを作って優秀な生徒をより優秀に育て上げるのが目的の様にも見えるが、学校側からの説明によると、数学の成績の底上げが目的との事であった。
確かに、私は高1の時に初めて出て来た対数(log)という新しい概念の所が良く理解出来ず、数学の中間・期末試験の際にどの問題も解けずに焦った経験があった。試験の時に、取り敢えず解き方が分かる問題から先にやろうと思っているのに、読む問題、読む問題、全部分からないと言うパニック状態に陥った経験は、この時が生まれて初めてであった。
そして、2-7組の数学を担当することになった大坪先生という方は、上級生からもかなり評判の良い先生であったが、実際に授業を受けてみると本当に分かり易い説明をしてくれるので、お陰で私の数学の成績は1年間で相当伸びたと思う。クラス編成の際に学校側が説明した「数学の成績を底上げする」という目的を私は実感した。
自宅学習という点では、私は、小学校、中学校を通じて自宅で勉強するのは宿題が出た時だけであり、予習、復習などする習慣が全く無かったので、高校に進学してからもそれは変わらなかった。ただし、英語だけは授業中に先生から指された人が「読んで訳す」という形式の授業だったので、単語の意味を事前に辞書で調べて訳を書き出しておく必要があり、予習せざるを得なかったが。
そういう勉強嫌いの状態だったので、高1の時の成績は、まあ平均的な成績だったと思う。ところが、何故か、1年の3学期終了直前の最後の「実力テスト」と言うやつで、何と、学年全体の上位一桁の順位に入ってしまった。1年間の総合テストだったので、皆さんが出題範囲の決まった中間・期末テストの時の様な試験勉強をしなかったから多少記憶力の良い私の成績が相対的に上位になったのか、単なるまぐれ当たりだったのかは分からないが(笑)。
因みに、城南高校では、全校テスト(中間テスト、期末テスト、実力テスト)の成績は、全員だったか上位100人くらいだったかは忘れたが、「教科別の点数、合計点数、順位、クラス、氏名」がプリントで全生徒に配られるので、誰が優秀か、自分がどのくらいの順位かが分かる様になっていた。
部活については、1年の1学期でバスケ部を退部して以降、何もしてなかったが、2年の時、中学の同級生だった宮本君から、音楽部への入部を誘われた。
音楽部では、毎年、地元テレビ局(KBC?)主催の合唱コンクールに出場しており、この年も出場予定であったが、男子高音部(テノール)の頭数が足りなかったらしく、私に臨時部員としての入部依頼があった訳である。
入部後は毎日の様に合唱の練習に参加していたと思う。そして本番のコンクールが福岡市の中心街である天神の渡辺通にあった九電・電気ホールで開催され出場したが、会場は殆どが女子高生で埋まっており、テナーのパートは最前列だったので、女子高生の前で気持ち良く歌った(笑)。
夏休みには、音楽部でキャンプをする事になり、福岡市の南部(佐賀県寄り)の野河内(のごうち)という渓谷から山間に入っていったところでキャンプをした。音楽部顧問の先生(年配の女性)と大多数の女性部員と少数の男性部員でのキャンプである。
2年生部員のテントは、何と、男女が一つのテントで交互に並んで寝ることになった。先生も「仲が良いね」と言うだけで黙認。まあ、マチガイは何も起こらなかったが(笑)。
まあそれは良かったのだが、夜中に雨が降って来て、テントの周りに掘ってあった溝が浅すぎたのか水がテントの中に滲みてきたため、私のズボンはびしょ濡れになってしまい、翌日ウチに戻るまで濡れたズボンをはいて帰るハメになってしまった。
1学期の私のクラスの座席の近く(前の席だった?)に織田美代子さんという可愛らしい女生徒がいたが、良く、授業で分からなかった所を教えてくれと聞かれて、説明してあげることが多かった。元来、女生徒と会話するのは不慣れな私だったが、彼女とはフランクに話せる様になった。
明るい性格で可愛らしい存在だったので、男子からも人気があったと思うが、彼女は、その後、東京に転校する事になった。東京に発つ日、福岡空港には沢山のクラスメイトが見送りに行き、私も見送りに行ったものである。
織田さんとは、その後しばらく文通することになる。確か、女子美(女子美術大学)に進みたいと言っていたが、その後どうなったかは知らない。そう言えば、修学旅行の際には、東京(本郷)の旅館に面会に来てましたねえ。
自宅の近くの公務員住宅に同級生の東光爾英君が住んでいたが、彼とは仲良くして貰ったし、恋愛相談を受けたりもしていたし、何と言っても、修学旅行の際に歌集を一緒に作ったり、その中の歌を二人でハモらせて歌ったりしたものである。あの当時は、まだカラオケ文化が無い時代だったので、我が我がと歌いたがる人もおらず、修学旅行のバスの中は、二人で歌う歌の独演会の様であった(笑)。
彼の父親は、大分県佐賀関にあるお寺(東光山徳応寺)の息子さんだったが、仏教の龍谷大学(京都)に行ったあと、親に内緒で別の大学(京都大学だったか九州大学だったかは記憶が曖昧)にも行ったそうであり、私の大学時代には、九大のインド哲学の教授であった。
就職後の1980年4月、友人の結婚式で京都に行った際には、龍谷大に通っていた東光爾英君を呼び出し、京都の木屋町で飲んだものである。その時にも恋愛相談を受けた様な気がするが(笑)。
彼は、大学院卒業後も龍谷大学の講師をしていたそうであるが、九州大学教授職を退職してお寺を継いでいた父親の後を継ぎ、現在は徳応寺の住職になっている。研究活動や講演等も並行して続けられているそうであるが。
[2022年7月10日:追記]
東光爾英さんとは、最近、またメールで時々交信する様になった。私が最近、落合莞爾先生の國體ワンワールド史観に興味があり、聖徳太子が日本に招来したのは、実は仏教ではなくマニ思想だったと言う話を東光さんにしたら、色々と聞かれて、書籍の内容を説明したり、先日は、落合先生の最新刊をプレゼントしたりして、ヤリトリが始まったところである。
但し、昨年秋と今年の夏は、本願寺の伝統学事を目的に全国から集まるお坊さん方に対して、講義をする役を仰せつかっているとかで、超ビジーらしく、暫くはメール送信を遠慮している所である。