高校に入学(福岡県立城南高等学校)


高校に入学(福岡県立城南高等学校)
時期:1970年4月
更新:2022年7月10日(日)
 
福岡県立城南高等学校に入学した。
 
この学校は比較的新しい学校であり、私は7期生である。つまり、1964年4月、私が原小学校七隈分校に転校した時に開校した高校である。
確かに、今の実家に移転してきた1962年11月の時点ではこの学校は影も形もなく、この場所は原野であった。
 
1 この何もない原野に、後に福岡県立城南高等学校が建設された。
 
この様に、城南高校は誕生してから6年しか経っていない新設校ではあったが、当時、福岡の街における城南高校の見方は、「修猷(しゅうゆう)に追いつけ追い越せ」の合言葉でスパルタ教育をしているモウレツ進学校だと言うことであった。
そして、それは入学してからも実感できた。何しろ、先生方の熱意がもの凄く、「課外授業」という名の授業をこれでもかと言うほど実践している学校であった。
別に、課外授業を追加で実施したからと言って、先生方に追加手当が出る訳でもなかろうと思うが、とにかく課外授業の量が凄かった。簡単に纏めると以下のとおりであり、課外授業は対象学年の全生徒に対して必修である。
 

学年 時期 課外授業の内容
全学年 通年 1時限目の1時間前(8:00)から1時限分の課外授業がある。内容は正規の授業そのもの。
夏休み中(7月下旬) 前期課外授業。午前中に、記憶が正しければ、間に15分の休憩を挟んで70分授業が3コマ。
3年 夏休み中(8月上旬) 中期課外授業。時間構成は、前期課外授業と同じ。
夏休み中(旧盆明けから10日間程度) 後期課外授業。時間構成は、前期課外授業と同じ。
2学期 放課後に、2時限分の課外授業。

 
因みに、修猷と言うのは、福岡市内の西新にある福岡県立修猷館高等学校の事であり、当時、福岡県一の学力優秀な高校と言われていた高校である。
校区は城南高と同じ地区だったので、城南中学からも何人も修猷館に入学している。
私にも修猷館は進学対象の選択肢の一つではあったが、成績的に微妙だったし、城南なら自宅から歩いて10分の距離、合格は問題なしと先生からも太鼓判を押されていたので、まあ、冒険はしなかった訳である。
その後、修猷館に行った人から話を聞いた限りでは、城南にして良かったと思った。修猷に入学した生徒は、時間経過とともに優秀組とそうでない組に別れてしまうそうであり、優秀組から外れて落ちこぼれて行った生徒は、先生達も手を差し伸べる訳でもないらしく、どんどん落ちて行くんだそうである。
その点、城南高は全員の学力を引き上げることを教師陣の目標にしているらしく、皆に厳しかったので、私の様なサボりの人間には、尻を叩いて貰えるので向いていたと言うことである。
 
では、城南高校は勉学一辺倒の学校かと言うと、そうではなく、スポーツも結構盛んであった。
ちょうど私が入学する1970年の春に、「春の高校バレー」がフジテレビ後援で始まったが、その第1回大会に我が城南高(男子)が福岡県代表として出場したのである。
2年先輩の5期生中心のチームである。記憶が定かでは無いが、確か予選リーグを突破して決勝トーナメントまで進み、トーナメント戦の初戦の相手が その年の優勝校となった中央大学附属高校(東京代表)だったので、残念ながら決勝トーナメントの初戦で敗退してしまった。
 
ラグビーも強く、体育教諭で坊主頭の三野(みの)先生と言う方が指導力を発揮して強いチーム作りをしていた。
体育の授業でもラグビーがあったが、ウェイトでは勝てない相手に小さい身体で対抗するためのスクラムの組み方とボールの出し方など、この三野先生に教えて戴いたお陰で楽しくラグビーを経験することが出来た。
 
その他にも名物先生が結構いて、授業の最初に必ず「英語活用文例集」なる冊子を用いて毎日10題ほど例文を暗唱させる繁田先生、古文の時間になるとしょっちゅう脱線して易学の話になる高木先生等々、色々と面白い先生がいた。
この高木先生から、ある時、授業中に唐突に指されて「摩須、般若心経を言うてみろ。」と言われたことがある。実は、私は中学の時だったが母方の祖父が亡くなった際に、死後7週にわたって、毎週お念仏を唱えに行ったのだが、その時に般若心経を耳で覚えてしまったので、般若心経はスラスラと暗唱できたのである。しかしながら授業中に思いがけず咄嗟に言われたものだから、慌ててタイミングを外し、口を開くことが出来なかったのである。もしもあの時、私が般若心経をスラスラと唱えていたとしたら、どういう授業になったのだろうかと想像すると、やれば良かったなあと実はちょっと後悔したりしている今日この頃である。ナンチャッテ。
 
入学した1年のクラスは7組、担任は国語担当の白垣政康先生であった。
 
因みに、当時の城南高校は1学年8クラスであるが、うち2クラス(7組、8組)は男子クラス(男子のみのクラス)であった。だから、私は1年の時は男子クラスであった。
 
城南高校の女生徒には可愛らしい娘(こ)が多かったが、中でも6組の酒井雅子さんと言う人の人気が男生徒の間ではダントツであった。隣のクラスである。
私は、当時は女生徒と話を殆どしない(出来ない)初(うぶ)な男だったので、女生徒の情報にも疎かった。確かに6組にはとても可愛らしいと思っていた女生徒がいたのだが、名前を知る術もない。だから、6組に可愛い娘がいるという噂を聞いていたので、その人が酒井雅子さんだと思い込んで1年間勘違いしていた(笑)。
勘違いに気づいたのは2年になってからであるが、その人の名前は谷啓子さんと言う人だった。因みに、この方は社会人になったあと、NHKの教育放送(全国放送)などにも出演することになる。名前は結婚後の名前である青柳啓子さんと言う名前で。
 
恋愛については、人並みに胸キュンしていたと思うが、何せ晩生(おくて)だったので、もう片想いの歴史である。
 
部活については、私は相変わらず飽きっぽくて長続きがせず、1年の時に入部したバスケットボール部を僅か1学期で退部してしまった。
 

クラス 種別1 種別2 期間 担任
1年7組 男子クラス 芸術科目:書道 1970年4月〜1971年3月 白垣政康先生
2年7組 男女クラス 芸術科目:書道 1971年4月〜1972年3月 繁田治男先生
3年6組 男女クラス 国立理系コース 1972年4月〜1973年3月 田中清次先生


[2019年5月17日 追記]
因みに、2019年の今年、姉の孫が城南高校に入学した。身内での初の後輩である。
 
2 高校1年のクラス写真。私は最上段の一番左。
 

後ろから 名前
1列目 、松川幸義、宮崎卓也、向井秀樹、森沢睦男、森本徹、山口秀一、山崎努、山本慎二、湯村隆、吉井仁、義原洋、渡辺・・・
2列目 冨田壮一郎、長岡美貴朗、中村秀一、荷宮修、禰占哲郎、波多江信、原田弘治、日永達也、日下春彦、藤井文人、藤田毅、二村寿登
3列目 川浪龍二、河野高毅、川村敏宗、岸田実、河野肇、柴田光晴、杉本隆司、田窪健一郎、高地恒明、郄橋克実、高宮陽一、東光爾英
4列目 秋丸・・・、有吉大輔、石橋渡、□□□、岩隈武幸、白垣政康先生、打越浩二、緒方裕治、岡部憲彦、嘉村康則、金本准一

 
■スナップ
 

3 中学校の同窓会で油山へ。中川治夫君と。
 
4 期末試験の後に開催された恒例のクラスマッチ(クラス対抗球技大会)。結構ジャンプしてますネェ、まだ太ってなかったから。