福岡市立城南中学校に入学


福岡市立城南中学校に入学
時期:1967年4月
更新:2022年7月10日(日)
 
私が通った中学は、福岡市立城南中学校
 
この中学には、ソフトバンクの会長である孫正義さんも一時期通っていた中学だそうである。多分、私より何歳か年下なので、通学時期の重なりはないと思う。
それから、女優の水野美紀さんも、この中学に一時期通っていたらしい。
最近の芸能人では、橋本環奈さんが城南中学の出身である。
 
1 福岡市立城南中学校の正門(1979年当時)
 
2 同上(2014年8月撮影) 35年の歳月で随分と変わった。
 
 
3 城南中学の校庭
 
4 1年クラス写真
 

上から 名前
1列目 吉郷倫子、竹本純子、中灘めぐみ、篠原秀昭、吉岡誠?、藤村徳一、、松井孝明
2列目 日下部?、原口・・・、吉水陽子、上野佳子、細川ひとみ、藤井善夫、高鍋臣二、堀田和秀、石川浩一、栗林・・・、北川富美男
3列目 □□□、□□□、石川世津子、□□□、渡辺泰子、□□□、佐々木正文、古川博、陶山正徳、高巣雅夫、早瀬孝昭、宮田勇夫
4列目 矢野厚子、東さち子、大島・・・、鵜野・・・、松田美由紀、前田恵美子、用田春雄先生、久保隆彦、本川・・・、柴田耕一、佐藤充重、谷井博

 
福岡市立城南中学校に入学。1年は12組まであり、私は9組に編入された。
担任は社会科担当の用田春雄(もちだはるお)先生。年配の先生であった。それからこの先生は、戦争で片方の脚に傷害を受けたそうであり、義足を着けていた。
 
何と言っても、中学と小学校では先生方の口の聞き方が全く違う。生徒の名前を呼ぶ時は男女とも姓の呼び捨てであり、会話の口調も命令口調であった。
 
各教科の先生の名前は全員は憶えていないが、国語は稲永(いななが)先生、数学は時枝(ときえだ)先生、理科は山崎先生、社会は用田先生、英語は服部先生、体育は毛利先生、美術は松崎先生、技術家庭は菅原先生、音楽は羽佐間先生であった。アリャッ? 全部憶えてますねえ。
 
そう言えば、国語の稲永先生は、とても厳しい先生であり、態度が悪いと思った生徒には厳しく叱責する方であった。その「態度が悪い」と言うのは、本当にふざけるとか私語を交わすとかいった叱られても仕方が無い態度を取った時の事ではなく、ちょっと気を抜いた(と先生に空気が伝わった)だけで、叱責が飛んで来るのである。だから稲永先生の授業中は、ため息も付けないくらいピリピリした緊張感が漂うのである。だから、多くの生徒から嫌われていたのだと思う。
ある時、(どうも稲永先生が自分の不人気の原因を知りたいと思って他の先生に協力をお願いしたのではないかと推測するが、)級長だった私は担任の用田先生から職員室に呼ばれ、「どうして皆が稲永先生を嫌がるか分かるか?」と聞かれた事がある。そこで私は、「稲永先生には隙(スキ)が無いと思います。例えば、授業中に、先生が通り過ぎた後にちょっと溜息をついただけで、急に振り向いた先生から叱責が飛んで来るといった具合なので、生徒側は緊張して息が抜けないんだと思います。」と答えたのだが、それから暫くするうちに、授業中の稲永先生の態度が少しずつ柔らかくなって来た様に感じた。これは、私だけではなく、他の生徒も同様に感じた様である。そして2年になると、稲永先生の周りにも少しずつ寄ってくる生徒が増えた様に思う。
 
中学の級長は男女各1名であり、半年ごとに改選された。「級長」と書いた赤いバッジを胸ポケットの上部に着けていたと思う。因みに、1年の時の級長は、前期が柴田耕一君(男子)と上野佳子(よしこ)さん(女子)、後期が、東(ひがし)さち子さん(女子)と私(男子)だった。
上野さんは美女であったが頭もよく、男子生徒の間では結構人気の的であった。勿論、私も密かに想いを寄せていた方である(笑)。この上野さんは、高校も同じ城南高校だったし、高校を卒業したあとJALのスチュワーデス(現在の言い方では、キャビン・アテンダント)になられ、私が就職して関東に出た後も、東京の城南高同窓会で何度か会うことになる。旦那様は全日空のパイロットだったと思う。
 
クラブ活動は、野球部に入部。顧問の先生は、中村先生という方で、兄の担任だった事があるので、私の名前はすぐに覚えて貰った。
野球部に入ったのは、ユニホームを着るのが夢だったからである。
野球部は上下関係が厳しく、下級生は上級生に絶対服従である。
3年生は夏休みまでだったが、レギュラーばかりでキャプテンは山崎さんと言う怖い顔をした人であった。ただし、成績が良かったらしく、進学は福岡県でレベルが1番高いと言われていた修猷館高校に進んだ。
2年生はガラの悪そうな人が多く怖かった。1年生は、基礎体力づくりのために「柔軟」と呼ばれる筋トレを毎日したが、1年生をシゴくのは2年生の役目である。
毎日、足上げ腹筋(運動)、起き上がり腹筋(運動)、腕立て伏せ、うさぎ跳び、アヒル歩きなどを1時間くらいやる。これが雨の日だと、校舎の中で延々と「柔軟」ばかりやらされるのである。
そして、2年生は、半分面白がってケツバットと言うのをやる。1年生に立った状態で両手を膝上に着かせて前屈の格好をさせ、後方からバットをスイングして1年生のお尻を叩くのである。手加減して叩く先輩もいるが、面白がって叩き、時には上の方を叩き過ぎて骨にあたる場合もあり、もう拷問状態であった。
「柔軟」の後の1年生の練習と言えばキャッチボールくらいのものであり、あとは、殆どの1年生部員は外野に一定間隔を開けて並び、前屈の状態で「ご〜え」という声を出して球拾いをするだけである。速球が投げられる選ばれた一部の1年生だけは、上級生の投手と一緒の所で投球練習をしていた。
 
夏休みも毎日部活に行き、休憩時間に牛乳が出たので、飲めなかった牛乳が飲める様になった。
そうやって夏休みが過ぎ2学期になったが、根性なしで飽きっぽい性格の私は、ある日、クラスメイトで野球部だった堀田君から「辞めようか」と言う誘いに乗って、二人で職員室の中村先生のところに行き、退部を申し出た。
結局、憧れのユニホームを着る事もなく、私の野球部生活は終わった。
但し、野球部に入って結果的に一つだけ良かった事がある。それは、肥満だった体格がシゴキのお陰でスリムになったと言う事である。2年になった時の100m走のタイムなどは、何とクラス1番になってしまった。