【ウバイド】天皇の系図(2018/2/4更新版)

【ウバイド】天皇の系図(2018/2/4更新版)
2018年02月04日(日) 晴れ

落合莞爾さんのウバイド・ワンワールド秘史をベースとした天皇の系図について、一応、「未稿」部分を埋めた版が出来上がった。今後の追加情報入手に応じて加筆していくとして、取り敢えず、これで一旦執筆完とする。
これまで落合莞爾さんから教えて戴いた真実の秘史について、頭の中でバラバラに散らばっていたが、系図(年表)と言う形でまとめられたので、流れが見えて来た様な気がする。
日本に関わる部分についてザックリと流れを書いてみると以下の様なイメージ。

時期 内容
1万年前(紀元前8000年) 最後の氷期「ヴュルム氷期」が終わり、氷期にも凍結しなかった中央アジアの高山地帯に棲息し続けた旧人類が、山を下りてメソポタミアのウバイドの丘付近に到達。ウバイド文化の誕生。「ウバイド人」は落合莞爾さんの命名。
7500年前(紀元前5500年) ウバイド人は、チグリス川、ユーフラテス川の河口を堰き止め砂金を採取。堰き止めて出来た土地は地元の民族(新人類)に農地として無償提供。メソポタミア文明の誕生
5800年前(紀元前3800年) 砂金が枯れてきたため、ウバイド人は、新しい川を求めて東西に移動。移動に際しては、遊牧民系ウバイド人は陸路で、漁労民系ウバイド人は海路で、各々移動した。
 〃 海路で東に移動したウバイド人は、インダス川流域(現パキスタン)に到達。インダス川河口で砂金採取。インダス文明の誕生
3400年前(紀元前1400年) インダス川で塩害が発生したため、ウバイド人は、更に東に移動。インド洋⇒マラッカ海峡⇒南シナ海⇒台湾海峡と経由し、日本列島の熊野(紀伊半島)と那の津(現福岡近辺)に到達
日本列島も太平洋岸だったので氷期にも凍結せず、ウバイドと同じ旧人類(縄文人)が棲息していた。日本列島に上陸したウバイド人は、同じ旧人類という事で波長が合ったのか大きな争いもなく縄文人と混血して行った。
紀元前1世紀 北九州の安曇王権(志賀島(現福岡市)を発祥とする縄文海民族の安曇族とウバイド人が混血して出来た王権)の族長だったイハレ彦は、大陸での騎馬民族の台頭を察知し、大陸からの侵攻に備えて安曇王権の縦深化を図る。具体的には、瀬戸内海を東進し、奈良盆地に入ってヤマト王権を建て、イハレ彦が初代天皇(神武天皇)となる

(以降は、下の「天皇の系図」の範囲をザックリまとめたもの。)

時期 内容
3世紀中頃 国譲り(1) 任那より騎馬族の血を引く任那天孫族のイニエを迎え、10代崇神天皇とする。それと並行して、8代孝元天皇の皇子である彦フトシオ羅津に渡り、國體黄金ファンドを護衛する八幡騎馬隊を創設する。
国譲り(1)の目的は、大陸を東進してくる騎馬民族に対し、ヤマト王権も騎馬族であると偽装して、日本列島への侵攻を牽制するため。
4世紀中頃 国譲り(2) 国譲り(1)で羅津に創設した羅津八幡族の子孫であるホムダワケを日本に戻し、15代応神天皇とする。入れ替わりに、14代仲哀天皇偽装崩御し、忍熊王、籠坂王を連れて羅津に入る。
国譲り(2)の目的は、羅津からの國體黄金ファンドの日本への持ち込みと、富国強兵
6世紀後半 国譲り(3) 25代武烈天皇偽装崩御し、国譲り(2)で羅津に渡った14代仲哀天皇の子孫である天国押開広庭(アメクニオシヒラキヒロニワ)を日本に戻して29代欽明天皇とする。
国譲り(3)の目的は、大陸で東進する騎馬民族勢力に対抗するために、日本列島社会の本格国際化を図ること。
7世紀中頃 皇統の渡欧(1) 35代皇極天皇の皇子である有間皇子(ありまのみこ)偽装薨去して國體黄金を持って渡欧し、メロヴィング朝フランク王国のピピン2世(中ピピン)と入れ替わる。その後、息子のカール・マルテル、孫のピピン3世(小ピピン)が、カロリング朝フランク王国を建国する。
皇統の渡欧(1)の目的は、西欧の國體護持
14世紀中〜15世紀始め 大塔政略 東(日本)西(欧州)の皇統、王統の血統を96代後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良(もりなが)親王の直系子孫で一本化する。
皇統の渡欧(2) 護良親王の子、孫を渡欧させ、欧州大塔宮を創る。目的はメソポタミアから西に移動したウバイド人の子孫であるケルト王朝の廃絶の危機を救うこと。日本から持ち込んだ毛織物の技術をベースにベルギーを拠点として力を蓄え、欧州各地で貴族となる。最終的にケルト王朝と混淆して欧州王家となる。ベルギー王家、オランダ王家の創建
15世紀前半 皇統の渡欧(3) 北朝2代光明天皇の皇子である栄仁(よしひと)親王(初代伏見度)の王子・治人王偽装死して國體黄金を持参して渡欧し、ハプスブルク家に入ってオーストリア大公エルンスト鉄公と入れ替わり、息子をフリードリッヒ3世とした。目的は、神聖ローマ帝国の皇帝をハプスブルク家が世襲する様にし、欧州國體の護持を図ること。
19世紀前半 堀川政略 世界情勢の混乱に対応するために、皇統の血統スペアの役割であった伏見宮を、海外戦略(國體)に専念させる。そのために、新しい皇統の血統スペアである閑院宮を創設し、さらに皇統を閑院宮に切り替えた。その後、世界情勢の混乱が激しくなり、日本の西欧への関わりを強くするために、1815年のウィーン会議で日本の強制開国を決定。これに対応するために日本国内の体制を見直す必要が生じたため、閑院宮皇統を國體に専念させ、政体は護良親王の直系子孫に切り替える4度目の国譲りが実行された。121代孝明天皇と皇子の睦仁親王偽装死して堀川御所に入り國體を担当(京都皇統の創設)。政体天皇は、睦仁親王に代わり大室寅之祐明治天皇を即位。

ざっと、経緯を書いたが、詳細は下の天皇の系図。

 【ウバイド】天皇の系図(PDFファイル版)


【参考】
 【ウバイド】ウバイド・ワンワールドとは
 【ウバイド】ヤマト王権(葛城王朝)の誕生