【國體ワンワールド】追記型メモ(2018/12/6更新)

【國體ワンワールド】追記型メモ(2018/12/6更新)
2018年12月06日(木) 雨、時々、くもり
 
【2018/12/6作成】
 
■聖徳太子の出自
 
●30代敏達(びだつ)天皇の第一皇子である押坂彦大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を生んだ息長の広姫(おきながのひろひめ)が、575年1月に皇后となったが、同年11月に急逝したため、翌年(576年)3月に、571年から敏達妃となっていた29代欽明天皇の皇女・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が、新しい皇后となった。
 
●ところが、実は、息長の広姫額田部皇女は同一人物であった。(京都皇統から落合莞爾さんが教えられた史実)
 
●従って、571年~576年3月までの間、一人の女性が息長の広姫額田部皇女の一人二役を演じていて、息長の広姫の方を偽装崩御させる事により二役の期間を終了したと言う事である。
 
●この様な工作の目的は、蘇我馬子額田部皇女の叔父)を実質的な政体最高権力者の座に着けて政体を蘇我馬子に任せ、天皇は、当時の最優先課題であった日本の本格国際化とマニ教(大乗仏教)の導入に力を注ぐ事であった。
 
額田部皇女は、後に、33代推古(すいこ)天皇となる。
 
聖徳太子の父親は、31代用明(ようめい)天皇ではなく、実は、30代敏達天皇であった。即ち、敏達天皇と皇后の額田部皇女の間に出来た竹田皇子(たけだのみこ)聖徳太子である。息長の広姫の偽装崩御に合わせて、竹田皇子(たけだのみこ)厩戸皇子(うまやどのみこ)と名前を変えたのである。
 
●33代天皇は、聖徳太子の母である額田部皇女が即位して推古天皇となり、自分の息子である厩戸皇子を立太子して摂政皇太子である聖徳太子として実質的な天皇位に就け、自分が形式的な天皇となった。