九州大学時代


九州大学時代
時期:1973年4月~1977年3月
更新:2022年7月16日(土)
 
九州大学理学部は、六本松キャンパスでの1年半の教養課程を経て、所定の単位を取得出来たら箱崎キャンパスの学部に進級する。単位不足の場合は教養課程での留年となる。
 

期間 キャンパス 課程
1973年(昭和48年)4月~1974年(昭和49年)9月 六本松キャンパス 教養部
1974年(昭和49年)10月~1977年(昭和52年)3月 箱崎キャンパス 理学部数学科


【1】理学部数学科
 
六本松キャンパスの教養部時代(1973/4~1974/9)は、数学科のメンバが全員集まるのは語学の授業と、幾つかの数学の必修講座の時間だけであり、教養課程であるため、講義の大部分は各自が選択した講座に出席した。
 
箱崎キャンパスに移っての専門課程では、数学の講座ばかりになるので、毎日、数学科メンバ全員が同じ教室に集まった。だいたいは午前中に教授・助教授による講義があり、午後は講師・助手による演習であった。
どうしても、午後の演習はサボりがちになり、教室で面子(メンツ)が集まると雀荘に出掛けるという日々が多かった(笑)。
 
4年生になると、卒業研究(通称、ゼミ)が週に1回だったと思うが始まり、各々が選択した各ゼミの教授の部屋で輪講をしたものである。
数学科の場合、卒論(卒業論文)と言うものが無く、代わりに卒業研究の単位を取る事になる。私が選択したのは、数学科の中でも当時は一番人気だった「計算数学」(藤野精一教授)であった。大型コンピュータが世に出始めた頃だったので、純粋数学(代数学、幾何学、解析学など)よりも応用数学である計算数学に人気が集まった。
勿論、各ゼミとも人数枠があるため、人気があるゼミに希望者が集中すると、各ゼミの教授が何らかの方法で希望者の中から所定人数の学生を選別する訳である。後で聞いた話であるが、計算数学の場合、藤野教授は、3年までの計算数学の講座(全員必修)の際の試験の成績順で希望者の中から上位6人を選別したそうである。
因みに、私はそんなに成績優秀な学生では無かったのだが、たまたま、3年の時の計算数学の試験の際に、幸運にもヤマがばっちり当たり、前日に作っておいた模範解答(当然、頭の中にインプットしてあった内容)をスラスラと書いて提出したのである。あの時、もしもヤマが当たっていなかったら、藤野教授のゼミには多分入れなかったと思うし、そうなると藤野教授のもとに富士通から来ていた募集(2名の教授推薦依頼)への教授推薦が貰えなくて、富士通に入社する事も無かったろうし、当然ながら富士通の沼津工場があるこの静岡県東部に転勤する事もなくて、カミサンと出会う事も無かったろうと思う。ウン、人生において「ヤマ」とはとても大事なものである(笑)
 
1 久保典文?、高田鴎外、、出来、杉本、土山、原田
 
 
3 理学部数学科のクラスメイト。集まった男子学生のみ。(箱崎の理学部にて)

上段 岡田、原琢磨、本山、原田、長坂、、下川、石井、副島
中段 高橋健二、久保祐一、小野(秦)、杉本
下段 森山、徳一、鶴崎、小野浩二、大串、長畑、加藤、廣川、土山

 

 

最上列 杉本、本山、久保祐一、大串、原田、廣川、長坂、、長畑
3列目 小野(秦)、広瀬、西小野、山崎、高田、加藤
2列目 首藤、徳一、下川、副島、小野、原琢磨、久保典文、鶴崎
1列目 森山、有川、宮野、久保田、梶原教授、出来、岡田、土山

 

6 卒業式 (1977年3月26日)
 
卒業式は、始めに九州大学全体の卒業式があり、終了後に理学部謝恩会が行われた。
その後、数学科は各ゼミ担当教授の部屋に分かれ、私はゼミ担当の藤野精一教授の部屋で座談会である。
 
藤野教授の部屋には、学士課程、博士課程の各卒業生が集まった。しばし歓談のあと、屋上に移動して記念写真を撮った。学士課程の卒業生は私を含めて5人。うち、就職したのは私を含めて3人、残りの2人は修士課程に進む。(この2人は、2017年7月現在、九州大学教授と東京大学教授になっている。)
 
夜は数学科のメンバーで中洲の「スコッチハウス」に繰り出し、卒業パーティー。
4日後には、生まれてから22年間を過ごした福岡を離れ、就職先である関東に出発である。社員寮は横浜市緑区の荏田と言う所にあり、暫くはそこが生活基盤となる。
 
7 数学科メンバ記念写真
 

上段 杉本、鶴崎、本山弘満、出来三博、副島真一郎、、大串天光、原田正章、石井雅晴、長坂千秋、下川徹、高田鴎外、長畑、森山隆夫、土山健、加藤、杉万郁男
中段 山崎、西小野、山岡美千恵、綾村幸子、寺崎雅代、広瀬八洲子、小野(秦)
下段 徳一保生、原琢磨、廣川佐千男、小野浩二、宮野悟、院生(6人)

 

8 藤野精一教授ゼミ関係者とゼミメンバ
 
藤野教授ゼミの学士課程メンバは6人だったが、1名は留年したらしく、一緒に卒業したのは5人だった。写真の左側の二人は博士課程の卒業生(一番左は、現役の福岡女子大学の講師)であり、学士卒は左から、山崎さん(女性)、広川君、宮野君、本山君、私である。
広川君は九州大学教授、宮野君は東大教授になったが、宮野君は数学の分野からヒトゲノム研究(遺伝子関連)の分野に向かい、この分野では有名な方になってる。
 
【2】バドミントン部での活動(1973年4月~1974年夏)
 
■部活の風景
 
高校の同級生である出口喜也君に誘われて、バドミントンを始めた。
 
9 六本松キャンパスの体育館にて、バドミントン部の練習
 
10 ロングサーブを打った後
 
11 これはバレーボールのフライングレシーブ(息抜きのお遊び)
 
12 カットショット
 
 
13 フォアハンド・クリアショット素振り練習
 
14 バックハンド・ドライブショット素振り練習
 
15 菊地君と私
 
16 バドミントン部の新人
 

氏名
上段 渋谷、中園、菊地、摩須、小倉、神川宏治、竹田、□□□、松山
中段 吉武考三郎、阿武、三曽野
下段 東森、清本、徳一保生

 

17
 

氏名
上段 渋谷、□□□(女性)、□□□、東森、梨田、□□□、竹田、松山、出口、新屋、萩○、摩須、□□□、□□□、□□□、□□□、吉田、□□□、三宅
中段 □□□(女性)、□□□(女性)、○○典子、戸田、中園、菊地、阿武、小倉、浜田、徳一、吉武、三曽野、酒井、本田
下段 □□□(女性)、園田、清本、神川、丸山、田中、中原?

 

18 吉武考三郎君
 
19 先輩(2年生)の酒井さん
 
20 先輩(2年生)の詫間恵美子さん(医学部、鹿児島出身)
 
21 詫間さん
 
22 先輩(2年生~3年生)の女性陣
 
23 1年生部員の3人。中園君、出口君、私 (合宿所にて。薬院の合宿所?)
  
■広島大学定期戦
 
以下を参照。
 
 バドミントン部の広島大学定期戦。広島大学に遠征(1974年3月下旬)
 
【3】大学時代のあれこれ
 
■学生運動
 
私が大学に入学した当時は、まあ下火にはなっていたとは言え、革マル派やら何やらと、まだまだ学生運動が続いていた時代であり、入学式の時には、ヘルメットを被った学生達が式場内に乱入し、ステージを占拠するのを目の前で見た。
それから、六本松の大学のキャンパス内でも、沢山のヘルメット姿の学生達があちこちにいて、マイクでアジテーションしたり、ビラ配りをしているのが当たり前の光景であった。
数学科の同級生の中には、配られるビラを結構集めている人もいた。勿論、政治活動に興味があるからではない。ビラの裏紙(白紙部分)を、大学の講義でのメモ帳代わりに使うためである。
国立大学の学生は、学費が安いという点で受験勉強を頑張って入って来た人や、地方から出て来て奨学金で生活している学生も多かったので、自宅通いの私とは違い、お金の余裕が無い人も多かったらしく、やはり、私学の学生と比べると節制した生活をしていた人が多かった様に感じた。
 
参考までに当時の授業料を説明すると、政府の方針により、国立大学の授業料を3年毎に3倍にして、私立大学授業料と国立大学授業料の格差を狭めて行くという政策を進めていた。私の1年先輩方(~1972年入学)までは1,000円/月、私達からは3年間(1973年~1975年)の入学生は3,000円/月、その後の3年間(1976年~1978年)の入学生は9,000円/月と、授業料が3倍ゲームの様に値上げされた。
因みに、私の息子(国立大、2009年入学)の時の授業料は約54万円/年(月額換算で45,000円/月程度)だったので私の時の15倍である。
 
教養部(教養課程の六本松キャンパス)時代に、一度だけ学生大会(総会)に参加した事があるが、総会の成立条件である定員が集まるまで開会が待たれるため、総会が始まるのは深夜の3時頃だったと思う。まあ、集まっている学生の殆どは(私を含めて)、話の種に一度は経験してみようと集まって来た学生だろうと思う。ワイワイガヤガヤとグループで喋ったり、トランプをしたりと、まちまちの学生達の様子であったが、まあ、お祭り気分だったのだろうと思う。
 
■ダンパ(ダンスパーティー)
 
バドミントン部にて、遠征費用調達という名目でダンスパーティーを開催した事がある。パーティー会場は大名町付近にあったキャバレーを昼間に借りての会場である。従って、終了時刻、引き渡し時刻厳守であった。
ダンパ券は、各部員に割当枚数があり、それを各自の販売ルートで売り歩くのである。そうは言っても、1年生の私達に販売ルートなどある筈もなく、福岡市の繁華街・天神に出て、道行く人に「パーティー券買って下さい」と言って売り込むか、他の大学の正門前で売るくらいの事しか出来なかった。私は、西新にあった西南大学(財津和夫さんのチューリップの出身校)の正門前で、高校の同級生と会う約束をして、何枚か預けて友達に売って貰ったりした。
 
■自宅の増改築
 
大学1年の夏から秋に掛けて、我が家の増改築があった。
元々、この家は父の会社である丸徳運送の車庫兼社員寮として建てたものであり、1962(昭和37)年11月にウチの家族が移転して来た建物である。一階は車庫(庭部分と合わせて小型トラック6台の駐車スペース)、二階が居住スペース(従業員寮+ウチの家族の居住地)であったが、その後、従業員寮は別の所に新設されたので、二階居住スペースはウチの家族だけで住んでいた。
そして、車庫の方も、近くに広い敷地の本社事務所+車庫が出来た頃から使われなくなっていたため、ここで1階車庫部分を普通の家屋に全面建て替えして、既存の2階部分と1階の増築部分を階段で繋ぐ普通の二階建て家屋に増改築されたのである。
その頃には、住んでいたのは親子3人(父母と私)だけだったので、建築工事を始めるに当たっては、歩いて数分の所に部屋を借りて父母が住み、私は増改築中の二階に留守番役として一人で寝泊まりしていた。二階への出入りにはハシゴを使って二階の窓から出入りしていた(笑)。食事と入浴は両親の所で済ませる形である。
一人暮らしだったので、昼夜を問わず大学の友達が私の部屋にハシゴを登って来る様になった(笑)。
 
■歌の集いとキャンプ
 
城南高校の同級生グループ(旧2年1組+3年6組の一部メンバ)が、大学進学後も休日に集まって歌を歌う様になった。きっかけは、この年(高3)の正月に、受験合格祈願のために皆で太宰府天満宮に初詣をし、帰りに高宮の山口久美さん宅にお邪魔する事になり、そこで楽しいひと時を過ごした時に、そういう話(歌の集い)が出て、それで決まったと記憶している。リーダ役として、音楽に馴染んでいる人がいないかと言うことになり、私が音楽部時代に一緒だった宮崎潔君に打診してみるという流れになったと思う。
 
1973年の春、大学に進学すると早速、休日に皆で集まる様になったが、その夏にキャンプをしようという話がまとまり、最終的にメンバ+α(男子4人、女子4人)が、夏休みに福岡郊外の野河内(のごうち)で2泊3日のキャンプをすることになった。
参加メンバは、男子が、出口喜也君、小串訓常君、宮崎潔君、私。女子が、山口久美さん、鮫島和子さん、成澤孝子さん、里村由美子さんである。成澤さんと里村さんは音楽グループには参加していなかったが、共通の友達なので参加する事になった。
 
24 キャンプの場所にて、トイレ用の穴を掘っている。宮崎君と私。
 
この場所は、高校2年の音楽部臨時部員時代にキャンプした場所である。当時、2年生の部員は、8人くらいいたと思うが、一つのテントで男女交互に並んで眠ったものである。見回りに来た顧問の先生(年配の女性教師)から、「あなた達、仲が良いわねぇ。」と言われたものである(笑)。
 
歌の活動については、赤い鳥の歌を中心に、パートを分けて赤い鳥のコピーをする事が多かった。「翼をください」等々。赤い鳥のコンサートも皆で聴きに行ったものである。
 
■アルバイト
 
バイトは、普通の人よりは少なかったと思う。小学生の家庭教師(高校同級生からの紹介)、高校生の家庭教師(高校同級生の弟、小学校同級生の妹)、イベント会場の設営(高校同級生からの紹介)、測量(高校同級生の父親の仕事の手伝い)、運送助手(父の会社のバイト)と言った程度である。
 
■教育実習
 
大学4年の6月、2週間の日程で高校数学の教育実習を経験した。出身高校である福岡県立城南高等学校での教育実習であったが、城南高では、学校側からの指定により、この時期に集中して教育実習生を受け容れていたため、全員同期卒業の実習生が一斉に集まる事になり、まあ、同窓会の様なものであり、とても楽しい2週間であった。
親友の小串訓常君、高校からバドミントンをやっていて大学ではバドミントンを始めた私とも試合会場でも何度か会っていた成澤孝子さん、その他、酒井雅子さん、西美弥子さん、杠秀利君、等々、実習生の控え室では、一緒にお茶を飲んだり会話が弾んだり、実習授業での生徒の反応を話し合ったりと、楽しいひと時を過ごす事が出来た。
 
私は、あるクラスでの実習授業にて貴重な経験をした。授業が終わった直後に一人の女生徒が近づいて来て、「(出題した問題を黒板上で指名した生徒に解かせ、生徒が書いた黒板上の解答を説明した時の)先生の説明は全然分かりません。分かる様に説明して欲しいです。」と言われてしまったのである。確かに、「はい、正解」と言うだけでは駄目だったのである。どういう考え方で解き進めていって、だからこういう回答に行き着いたという途中経過の説明を、問題を解いた人以外の生徒にも分かる様に黒板上に書いてある回答内容を辿りながら説明して欲しかった様である。普段の数学担当の先生は、多分、いつもその様に丁寧に説明されていたのだろうと悟ったのである。次の授業からは、その様な説明の仕方をして、私の所に近づいて来た女生徒の顔を確認したら、「分かった」という顔をして頷いてくれたので安心した。一つ、生徒から大事な事を教わった。まあ、結局、私が数学教師になる事は無かったが。
 
放課後には、部活の場所にも小串君と一緒に顔を出し、バドミントン部の所で一緒にバドミントンをさせて貰った。久しぶりのバドミントンであった。
別の日にまた、バドミントン部に行ったら、部のOG(Old Girl、先輩)として成澤さんが来ており、相手してあげるから一緒にやりましょうと言われ、始めたのはいいのだが、成澤さんから前後左右に好きな様にシャトルを散らされて遇(あしら)われ、上半身は反応するのだが下半身の足の一歩が全く前に出ず、コテンパンに遊ばれてしまった(笑)。
 
最終日は、授業が終わったあと、天神の宴会場に実習生が集まり、打上げの宴を催した。二次会まで行ったのだが、かなり飲み過ぎてしまい、西さんに介抱して戴き大変お世話になった。飲み過ぎは駄目ですネェ。
翌日、前日にお誘いしていた成澤さんに電話して、会って戴く事になった。初デートの場所は大濠公園である。その後も、暫くお付き合いさせて戴いた。
 
【4】城南高校時代の同級生
25 高校時代の親友(キャンプに参加した4人の男性のうちの3人)と飲む。(2018年末)
 
これは、最近の写真。帰省すると、よくこの三人で飲んでいる。向かって右から、小串君、出口君、私。
 
以降の26~31は、2021年の暮れに六本松で集まって飲んだ時の写真である。新型コロナで暫く集まって飲むのを自粛していたが、数年振りに再会して飲む事が出来た。
残念ながら、この1ヶ月後、小串君は他界された。
 
26 出口君(左)と小串君(右)
 
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30 小串君と私(右)
 
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32 山口さん (2004年10月)
 
キャンプに参加したメンバの一人・山口さんは、現在は杉並区にお住まいである。2008年2月には、同級生を杉並区宮前の自宅に招待して戴き、ご馳走して貰った事がある。その帰りに、同じ宮前に住んでいた息子のアパートに寄り、吉祥寺の「牛角」で飲み直したのだが、翌日、風邪を引いてしまい寝込んだ様な気がする(笑)。
 
33 鮫島さん (2004年12月)
 
同じく、キャンプに参加したメンバの鮫島さんは、千葉県市原市にお住まいである。
鮫島さんとは、高3の時に同じクラスになったが、何と、その年の夏休みに私が一目惚れしてしまったというい珍しい経験をさせて戴いた女性である。私にとっての生まれて初めてのデートのお相手だったのも鮫島和子さんである。
 
34 成澤さん (1977年)
 
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同じく、キャンプに参加したメンバの成澤さん。この写真は、大学の卒業旅行の時の写真を戴いたものである。
成澤さんとは同じクラスになった事はなかったが、高校、大学とバドミントンをやっていて、同じくバドミントンをやっていた出口君と親しかったので、私も高校時代から知ってはいたし、大学に入ってからは私もバドミントンを始めたので、大学生のバドミントン大会会場で顔を合わせて挨拶したりしていた。4年の時には母校の城南高校での教育実習で一緒になった事は上に書いたとおり。
 
36 成澤さん(中央)、里村さん(右) (2002年6月)
 
2002年6月に姪の結婚式で帰省した際に、出口君が人を集めて同窓会をしてくれたのだが、その時の二次会で成澤さんと数十年ぶりに再会した時の写真である。その時に旦那様との馴れ初めや、旦那様が修行して出家して仏門に入られた事など、積もる話をしてくれた。
2012年5月には病気治療で東京の病院に入院されていたのでお見舞いに行ったのだが、翌月、成澤さんは他界された。
 
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同じく、キャンプに参加したメンバの里村さん。彼女とも同じクラスにはなった事は無かったが、女子バレー部で頑張っていたので在学当時から知っていた。
大学は成澤さんと同じ福岡女子大学に入り、多分、成澤さんに誘われてバドミントン部に入られたので、大学のバドミントン試合会場では時々顔を合わせていた。
就職は、最初は旅行会社だったと思うが、その後、教員試験に合格して教師になられた。上の写真は、多分、教師になられた後の写真だと思う。
 
38 上薗弘子さん
 
上薗さんは、同じ城南中学の時は女子バスケット部のエースだったが、城南高校では書道部に入られていた。今でも年賀状を戴くが、とにかく達筆であり、毛筆でサラサラっと優美な文字を書かれる。
彼女とは、高校2年で同じクラスになったが、高校卒業と同時にJALに入社してスチュワーデス(最近は、キャビンアテンダントと呼ぶ様になっている)になられた。我々が大学生の時に既に高給を稼がれていたので、福岡に帰って来た時には、お酒をご馳走になったりして甘えさせて戴いた。この写真も、確か、是非ともJALの制服姿の写真を下さいと頼んで戴いたものである(笑)。
現在は引退して福岡にお住まいである。