城南中学校 3年に進級


城南中学校 3年に進級
時期:1969年4月
更新:2022年7月10日(日)
 
3年に進級した。クラスは7組、担任は英語担当の吉武君枝先生である。まだ独身であった。
 
この年、七隈小学校の南奥の位置に梅林中学校が開校され、一部の生徒が校区再編で梅林中学校に転校して行った。
七隈小学校から城南中学校に進んだ同級生の多くが梅林中学校に転校して行ったが、幸い、私の家は城南中の校区に残った。噂によると、梅林中は、西中から転校して来た生徒にワルが多く、城南中から移って来た生徒は一人ずつ番長に呼び出されたという話を聞いたことがある。
 
バレー部の方は、またまた飽きっぽい性格のためにズル休みして練習に殆ど行かなくなっていたが、中体連の大会が近づいた頃、後衛ポジションのレギューラだった吉川君が骨折したために補欠の私が出ざるを得なくなり、呼ばれて渋々練習を再開したのを憶えている。
結構まとまったチームであり、キャプテンでエースアタッカーだった宮田君が頑張ったが、市大会予選で敢え無く敗退した。
 
3年の頃には、私の興味はもうバスケットボールの方に移っていたが、バスケットボールの代わりにサッカーボール(ゴム製)を買って、休みの日には一人で城南中か城南高のバスケットコート(校庭)に行ってシュート練習していたものである。本当に飽きっぽい性格であり、何をやっても長続きしない(笑)。
 
真子君は元バスケット部で、とても上手だったが途中で退部していた。そして、私にビリヤードを教えてくれたのが彼である。
私達がやっていたビリヤードは、赤玉、白玉が各2個ずつの「四つ玉」がメインであったが、ビリヤード場には彼と良く通ったものである。
あの当時は、ビリヤード場と言うと、世間の目はまだ不良(ワル)が集まる場所というイメージを持っていた様だが、実際に行ってみるとそんな事はなく楽しかった。
それから真子君とは卓球場にも良く行った。この時期に私の卓球の腕も上がった。
 
[2019年7月17日 追記] 
2019年8月に、城南中学校同期生の同窓会が計画されていて、この時点での出欠者の状況がメールされて来ていたが、何と、真子君は既に亡くなられている様である。
 
小串君とは、このクラスで出会った。彼は、当時はまだテニス部(軟式)で頑張っていたので、それほど密な友達関係では無かったが、高校に入ってから、クラスは3年間違ったものの一番の仲良し友達になった。
現在でも小串君との親交は続いており、最近は、帰省すると一緒に飲んでいるし、マメちゃん見たさに犬の散歩にも付き合ってくれる(笑)。
 
[2022年7月10日 追記]
小串君とは、新型コロナが流行し始めたあとは、「宴」の方は自粛していたものの、犬の散歩の際には帰省のたびに連絡して散歩中に会っていた。そして、昨年末の正月帰省時に久しぶりに盃を酌み交わす事が出来た。
しかしながら、年が明けた1月末に他界された。寂しい限りである。数年前から体調が思わしくなく、入退院を繰り返してはいたのだが。まあ、私の世代も、そういう年代になったと言う事である。
 
宮本君は、どういうキッカケだったか忘れたが、仲良くして貰ったし、自宅に遊びに行った事もある。
彼は、エレキギターがとても上手だった。私も感化されて、結局、小遣いをはたいてエレキギターを買ってしまったのだが(笑)。
彼とは高校でも付き合いが続いたが、彼が所属していた音楽部では、毎年、地元TV局(KBC)主催の合唱コンクールに出場していて、2年の時に男子パートの頭数が足りないと言うので、私を部員として音楽部に勧誘したのも彼である。
最近は、帰省した時に同窓会で会った事が何度かある。
 
山口君は、バスケット部で活躍していたが、足も速かった。運動会が近くなった頃、リレー競技だったかもしれないが、クラス代表の選手を選ぶ事があって、私は鈍足だからと言って辞退したのだが、彼が、とにかく俺と一緒に並んで走ってみようと言われ走った事がある。
最初はペースを落として私と並んで走っていた山口君が、途中でスピードを上げて来た。そうなると私も、ちょっと負けちゃあおれんと煽られてしまい、彼に間を空けられない様に脚の回転速度を上げた。それを受けて彼が更にスピードを上げ、負けじと私も更に回転速度を上げ、結局、二人が真横に並んで高速で暫く走り続けたあと、彼がフッと速度を落としたので私も合わせて速度を落として横並びを保ったのだが、あとで「速いよ、こいつは」と言われてしまった(笑)。
 
山口君で思い出すのは、高校3年の夏(秋?)の事である。
当時受験生だった私は、ある夜、息抜きに、小串君と一緒に九州大学教養部(六本松キャンパス)の文化祭を夜に見に行った事がある。その時、フォークソング部か何かのイベントだったと思うが、ある女学生がライトアップされたステージに上がって、当時流行っていたもとまろの「サルビアの花」を歌っていたのである。
その女性が可愛らしくて胸キュンしてしまい、大学は良いなナァ、九大は良いナァと思ったのである。ところが、暫くあとになって、小串君から「あの時歌ってた女の人は、山口君のお姉さんだった。家に入って行く所を目撃した。」と教えて貰い、本当にビックリした。本当に不思議なところで繋がっているものである(笑)。
山口君の家は小串君の家から近かったが、確かお父さんが弁護士だったと思う。
山口君とは、その後、大学時代の中学同窓会で再会したが、慶應大学に行っているとの事だった。最後に会ったのは、2016年夏の同窓会だったが、結構、お腹が出ていた様な(笑)。
 
ある学期だったと思うが、渡辺郁子(あやこ)さんが私と座席が近くになった事があり、中学に入って以来殆ど全く女生徒と話をしなかった(出来なかった)私が、渡辺さんとはとても気楽に話しが出来て、渡辺さんのお陰で女生徒とも少し会話が出来る様になった。
 
渡辺さんとは、その後、就職した年に東京で再会する事になる。高校時代に親しくさせて貰っていた上薗さんがJALのスチュワーデス(今の呼び方ではキャビンアテンダント)をしていて目黒区に住んでいたので、入社式の翌日(1977年4月2日)、彼女のマンションにお邪魔したのだが、そこに渡辺さんが来られていたのである。知らなかったが、上薗さんと渡辺さんは仲良しだったらしい。
結局、その日は、更に同じマンションに住んでいたJALのパイロットの男性が二人来られて、上薗さんの部屋で男女5人での徹夜麻雀になってしまい、入社早々の寮生の私は、入寮4日目で外泊してしまった。しかも女性の部屋に(笑)。私は高校の友達なので特に気にもしていなかったし、寮の管理人さんにも外泊先の上薗さんの名前(フルネーム)をちゃんと電話で伝えたのだが、後日、寮の同僚から「おまえ、良くやるナァ」と驚かれてしまった。今にして思えば、大胆不敵な行動だったと思う(笑)。
 

クラス 期間 担任
1年9組 1967年4月〜1968年3月 用田春雄
2年7組 1968年4月〜1969年3月 山崎宗義
3年7組 1969年4月〜1970年3月 吉武君枝

 

1 3年7組 クラス写真
 

上から 名前
1列目 本田功、真子義樹、井手孝一、、田中明彦、小串訓常、志水貴、寺田邦子、野田智香子、西田衣江、井上ゆう子
2列目 藤原和利、山口文男、青柳聡、鈴木照久、村田美乃、山本みどり、前田知通子、鐘ヶ江厚子、石原恵美子
3列目 松原義文、朝重秀昭、佐藤龍介、藤村・・・、梅野秀俊、宮本亮治、鶴勢津子、岩本和子、野田久美子、野田和子、北里加代子
4列目 □□□、山崎秀満、中川治夫、山本和弘、井上謙治、吉武君枝先生、前田恵美子、中尾聖子、大木ゆかり、渡辺郁子、大和恵子

 

2 中学校での体育の時間
 
3 遠足で油山まで歩く。この日は私服OKだった。
 
 
5 オレは横顔に自信があると言って横を向く井手君
 
 
7 スイカ割(虹の松原)。佐賀の親戚のウチに泊りで遊びに行っていた時に、地元佐賀の子供会か何かの催しで虹ノ松原に連れて行って貰った。