母方の祖父の他界


母方の祖父の他界
時期:1968年5月17日(金)
更新:2020年5月14日(木)
 
母方の祖父が亡くなった。享年80歳である。
祖父は、1888年(明治21年)1月5日生まれなので、満年齢で80歳の時に亡くなった事になる。
 
享年とは、この世に存在した年数のことであるが、日本では元々、満年齢という概念が無く、数え年で年齢を扱っていたため、享年も数え年で言うのが本来の言い方らしい。
しかしながら、最近では日本でも数え年を余り使わなくなったため、享年を満年齢で言う事が多くなって来たそうである。
要は、お願いした葬儀屋さんの作法に従って決められているのかも知れない(笑)。
私の父の場合は、享年は数え年で言われていたが、菩提寺(檀家になっているお寺)は祖父も父も同じ真言宗別格本山「東長密寺」なので、享年を満年齢で言うか数え年で言うかを決めるのは、菩提寺ではないと思われる。だから、葬儀屋の作法で決められていると言うのが正しかろうと推測する。
 
それから、行年という言葉もある。意味的には、娑婆(しゃば、現生)で修行した年数の事であり、結局、享年と行年は同じ年齢と言う事である。
 
因みに、全くの偶然であるが、祖父と父の命日は同じ日である。享年も同じ80歳だったが、上に書いたとおり、満年齢では、祖父の場合は満80歳、父の場合は満79歳だった。
 
私が生まれたのは、祖父の家の応接間だと聞いている。当時は、お産婆さん(助産婦)が赤ちゃんを取り上げる事も珍しくはなく、私も病院ではなく母の実家でお産婆さんに取り上げられた。以来、小学校2年の11月に現在の私の実家に引っ越すまでは、祖父の家の同じ敷地内にある家屋に住んでいたので、祖父に可愛がられながら育ったのである。
 
祖父は、阿波(徳島県)の出身であるが、若い頃から苦労して一家を築き上げた人である。若い頃から丁稚奉公に出て働き、周りに認められて若山家の一人娘だった祖母と「入夫婚姻」という形で結婚し、若山家の家督を相続した。
 
祖母は、全部で13人を出産したそうである。但し、戸籍謄本に記録が残っているのは、男7人、女4の11人であり、子供のいなかった親友より「今度男児が生まれたら養子に欲しい」懇願されて断り切れず、その後実際に身ごもって男児が生まれたために約束を守る事となって親友の家の子として出生届を出した男児が1人、性別は分からないが死産だった子が一人いるらしい。
4番目に生まれた二男の修三という息子は、大東亜戦争で戦死したそうである。祖父の家に修三伯父の写真が飾ってあったのを私は子供の頃から見ていた。
  
祖父は、若い頃に丁稚奉公したあと、大阪の簿記学校に通い簿記を習得。祖母と結婚した頃には、徳島県海部郡由岐町の役場に勤めていたそうである。
その後、地元の町会議員選挙に立候補したそうである。
選挙では惜しくも敗退したそうであるが、対立候補だった増田茂吉さんと懇意になり、それ以降の祖父家族の行く末に増田茂吉さんが大きく関わって行くことになったのである。
 
由岐町役場時代の一時期、祖父は漁船の船主となり、人を雇って漁業を営んでいたそうであるが、ある日、嵐で漁船が遭難してしまい、従業員その他の補償のために全財産を失ったと母から聞いている。
 
その後、増田茂吉さんが五島列島(長崎県)に創業する製氷会社の立ち上げに協力して欲しいと請われた祖父は、単身で五島に渡り活動して、後から家族を徳島より五島に呼び寄せたらしい。
五島では、荒川と言う町で生活したそうである。五島時代の事は殆ど聞いたことがないので知らないが、烏賊や魚などがとても美味しかったという話は聞いている。
夏の夜には、蚊を避けるために家族を乗せて船で沖に出て、洋上で夕食の料理を作って食べる事もあったとか。結構、優雅な暮らしをしていた様である。
 
荒川での製氷会社時代のある日、祖父は会社で機械に片方の脚を挟まれて、膝の少し下から切り取られてしまったそうで、私の知っている祖父は、脚の先(切断部)に包帯を巻いて義足を着けた姿だけである。外出する時には、杖を突いて歩いていたが、義足の音がギーギーといつも聞こえていたのを憶えている。
ちょうど事故が起こった日、祖父は朝食を取らずに出勤したらしく、私の子供時代には、「必ず朝ご飯は食べなさい」と母から言われたものである。
 
五島のあとは、同じく増田茂吉さんに請われて、今度は単身で祖父は福岡に移り増田商店に勤務し、あとから家族を福岡に呼び寄せたとか。私の母がちょうど女学校に進学する直前だったため、荒川での小学校の卒業式にも出席せずに、一人だけ先立って増田茂吉さんに連れられて福岡の父親(祖父)のもとに移動したそうである。残りの家族が荒川から福岡市内に移動し、家族全員での福岡市内での生活が始まったのは、その少し後だったそうである。
 
祖父の家族は、福岡では何回か移転して借家に移り住んだそうであるが、黒門(現在の唐人町付近)の借家を最後に、昭代町(現 早良区昭代)に屋敷を買って家を建て、そこに定住した。増田商店では経理部長を務めたらしい。
 
その後、昭和34年(1959年)6月、祖父は現在の丸徳運送株式会社を父と一緒に設立し、祖父は社長として会社経営していた。本社は自宅の応接間を事務所にしたものである。つまり、私がお産婆さんに取り上げられた部屋である。
 
現在の私の実家がある土地は、祖父が買って持っていた土地であるし、その南の奥にあった金山(かなやま)という小さな山の半分も所有していたそうである。金山の土地については、その後、住宅公団だと思うが、団地を建設するので売ってくれと言われて、何度も断ったらしいのだが、余りにも執拗に交渉してくるので二束三文で手放してしまったらしい。現在の金山団地がある場所である。
それから、自宅の北方向にある麁原山(そはらやま)の東側には桜の木が今でも並んでいると思うが、祖父が寄付したものである。
 
この日は、夜に電話があり昭代町に駆けつけたが、金曜日であり、「ザ・ガードマン」と言うテレビ番組の事を何故か憶えている。家を出る前に見ていたものなのか、昭代町に着いた時にテレビで流れていたものなのかは憶えていないが。
 
祖父が亡くなったあと、1週間おきに、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、四十九日と親族が昭代町の家に集まり、ご詠歌と念仏(般若心経)を唱えたものである。般若心経については、毎週7回ずつだったと思うが唱えたので、全回参加した私は、般若心経を7回×7週=49回唱えた事になるが、耳で般若心経を覚えてしまった。「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言うやつである。
 
1 母方の祖父母