城南中学校、2年に進級


城南中学校、2年に進級
時期:1968年4月
作成:2019年3月27日(水)
 
2年に進級した。クラスは7組、担任は理科担当の山崎宗義先生である。
1 2年クラス写真

上から 名前
1列目 久富昭彦、、篠原秀昭、天野克彦、渡辺良人、古賀文子、長江節子、熊谷祐子、吉富淳子、渡辺映子
2列目 畑江・・・、藤勝正弘、久次和明、寺崎正敏、宮下・・・、古賀貴久男、渡辺泰子、大谷久美子、□□□、江口節子、岩本和子
3列目 桑原学、河野元、松原義文、武藤啓一、幸山七郎、樋口康弘、本田正、三好一美、福島典子、中尾聖子、野田和子、東さち子
4列目 長田昌人、柳聖二、矢口則彦、白木英男、権藤芳輝、山崎宗義先生、渡辺京子、松村景子、信田政代、松隈かよ、松田美由紀


私は、小学校の時はクラスの女生徒とも普通に会話していたのだが、中学に入ると色気付いたのか、異性を意識してしまって女生徒とは全く会話が出来なくなっていた。
1年の時も、後期の男女組長としてペアを組んだ女子級長を相手に、学級会の議事進行時の必要に迫られて最低限の会話をした以外は、全く女生徒と会話をしなかったのだが、2年に進級しても事態は全く変わらず、女生徒とは1年間、会話をした記憶が全くない。中学校時代に女生徒とも普通に会話出来る様になったのは、3年になってからである(笑)。
 
以下、クラスの各メンバについて印象に残っていることを列記してみる。
 
天野君は、アイススケートが上手だった。影響されて私も天神にあるスケート場「福岡スポーツセンター」に良く行くようになったし、小遣いを貯めてスピードスケート用のスケート靴(エッジ長が25cmのハーフサイズ)も買ったのを思い出した。その後、友達から中古のセミロング(エッジ長42cm?)を買い、少し飽きると、それを友達に売って中古のホッケー用スケート靴を買ったりした。
スピード用スケート靴は高さが低くエッジが長いので直進方向の安定感はあるが、その分、左右への小回りが効かない。逆に、ホッケー用シューズは、高さが高くてエッジ長が短いので直進方向は不安定であるが、小回りは抜群である。
天野君とは、当時人気があったピンキーとキラーズのコンサートにも一緒に行った事がある。私にとっては、生まれて初めての芸能人のコンサートであった。
因みに、福岡スポーツセンターと言えば、昔は、ここが大相撲九州場所(11月)の開催地だった。
 
ピンキーこと今陽子さんとは、その後、私がfacebookを始めた時(2010年代)に、駄目元で友達承認依頼を送ったらOKしてくれ、何年間かfacebook友達であった。別に、会話のヤリトリをする事は全く無かったが(笑)。
2017年6月の鹿児島旅行中に私のfacebookアカウントが何者かに乗っ取られてしまったため、迷惑が掛からない様に旅先から急いでメッセージを送り友達関係の解消をして戴いたが。
 
河野君とは何度か草野球を一緒にした事がある。彼は切れのいいカーブを投げていた。
記憶では、彼は別府団地から茶山に引っ越して来たのだと思う。父親は博多駅付近でヒロカネと言う記念品を扱うお店をやっていたと思う。
河野君は、現在は公文に勤めているそうであり、同じ公文に勤めている高校の同級生から、彼は公文の九州地区のトップだと聞いたことがある。
 
篠原君とは、別府小の2年の時に同じクラスだったが、中1、中2でまた同じクラスになり、良く遊んだものである。茶山の彼の家には卓球台があり、良く遊ばせて貰ったし、大学生で自転車に興味があるお兄さんがいて、そのお兄さんとも一緒に卓球をさせて戴いた。
それから、篠原家の離れには、九大生と西南大生の二人の大学生が下宿していたが、西南大生の方はハンサムで俳優の原田芳雄さんの様な顔だったと思う。一方、九大生の方は凄く勉強熱心だった様である。ある時、部屋に置いてあるノートをちょっとだけ篠原君から見せて貰った事があるが、ビッシリと英語が書き込まれていて、「凄いナァ」と思ったものである。
時々、この二人の大学生が、息抜きに我々中学生を誘って空き地で草野球をすることがあったが、3人対3人の変則野球、ボールはソフトボールを使っていた。いつも、大学生チームからは打力のある私が指名されるので、大学生二人+私と、中学生3人の篠原君チームで戦っていた。
 
因みに、この九大生の方とは、後に大学で再会する事になる。私が九大の理学部数学科に入学して箱崎キャンパスの専門課程に進んだ際に、同じ数学科の助教授になられていた。柳川先生という方である。
篠原君は、奢って貰うのが上手と言うか、いつも私が菓子とかラーメンとかを奢っていた様な気がする(笑)。
 
部活動は、1年の中頃に野球部を退部したあと何もやっていなかったが、誘われて男子バレー部に入部した。
顧問は祇園先生と言う男の先生であり、家はお寺であった。キャプテンは岡村さんだったかな。3年生は皆バレーボールが上手であり、特に、左右の両アタッカーが強かった。サウスポーの菰田さんと、橋詰さんである。
夏の中体連大会では福岡市大会を勝ち上がり、福岡県大会まで進んでベスト8に入った。準々決勝の相手がその年の優勝校だったが、接戦の末、セットカウント2-1の敗退。もし勝っていたら城南中が県大会優勝だったかもしれない。
 
大会会場は福岡城址の裏手にある会場であったが、2年生は結構暇だったので、会場に落ちているコーラの瓶を拾って酒屋に持って行き、1瓶10円で換金して貰うなんて事もやっていた(笑)。
ちなみに、この年の中体連での城南中学の成績は凄かった。男子バスケット部が県大会優勝、私が退部した野球部も敗者復活戦(市大会?)から勝ち上がり県大会で優勝してしまった。もしも男子バレー部も県大会で優勝していたら3種目で城南中が県大会優勝という快挙になるところであった。
時期は忘れたが、一度、祇園先生の自宅に部員全員が招待されて食事をした事がある。
 
中体連が終わると3年生は全員引退し、我々2年生の天下となる。
夏休みの後半に早速2年生主体でバレー部の練習が再開されたのだが、炎天下で祇園先生からレシーブの練習(乱打)を受けている最中に目の前が真っ暗になって目眩を感じてしまった。当時はまだ、そういう呼び方は無かったが、今にして思えば、あれは熱中症の前兆だったと思う。
 
城南中学の体育祭は、平和台陸上競技場を借り切って行われていた。
短距離の2年男子100m走に出場するクラス代表選手を選ぶために、男子全員で競争して一番速い人を選ぶことになったのだが、何と私がクラスで最速という結果になり、100m走に出場した。小学校時代は太っていたので、鉄棒と競走は大の苦手であり、短距離走もマラソンもクラスで後ろから2番目(ブービー)だったのだが、中学に入ってからの野球部のシゴキ(「柔軟」と称する筋トレ)が効いたのか、クラス1の俊足になってしまった。体育祭の本番では、予選が2位、決勝で3位に入った。
 
2 部活(バレー部)の練習の帰り道
 
3 遠足