別府小学校3年に進級


別府小学校3年に進級
時期:1963年4月
更新:2022年7月14日(木)
 

学校 学年・学期 在籍期間 担任
福岡市立別府小学校 3年生(1学期、2学期、3学期) 1963年4月~1964年3月 大内田忠治


この別府小学校での生活は、2年生の3学期とこの3年生の1年間の僅か15ヶ月であり、かつ、私にとっては、余所の学校に一時疎開していたかのような、ちょっと馴染めない生活であった様に思う。自分自身も、本来の自分では無い様な暫定的な異次元空間での生活だった様にも思う。
多分、成績も余り良くなかったのではないかと思う。入学校である高取小学校での1年9ヶ月と、卒業校である七隈小学校では、自分で言うのも何だが、クラスでは成績はトップグループ、クラスでの存在感も周りから注目を集める存在だった様に思うが、別府小学校での15ヶ月は、自分のクラス内での成績がどの程度だったか全く憶えていないし、クラス内でも影が薄かったのではないかと自分自身でも思う。不思議な15ヶ月であった。
また、3年生の時のクラス写真が、これまた無いのである。クラス写真撮影があったのか無かったのかも全く憶えていない。憶えているのは、クラスの悪そう小僧4人組の一人として、掃除当番をサボったりしていた事だけである。あのまま別府小学校に卒業までいたとしたら、私の人生は大きく変わっていたのかも知れない(笑)。
 
3年生に進級。3年4組、担任は大内田忠治先生。荒戸町に住んでいると言っていた。
 
1学期の始業式の日に転校生がいたが、津野るみ子さんと言うセーラー服デザインの服を着た超可愛い女子であった。
この人は、成績が抜群であり、1学期の通知表はオール5という噂であった。ただ、鉄棒だけは苦手の様だったが。
結局、このクラスに在籍したのは1学期だけであり、1学期の終業式の日に他校に転校してしまったのだが、1学期間だけ彗星の様に現れて、オール5を取って、そしてまた彗星の様に去って行った超可愛い女の子であり、言ってみれば妖精が現れて、アッと言う間に消えたという様なイメージであった。
ところが、この女性、高校で同じ学校となり、3年の時には再び同じクラスになるのである。
 
城南高校3年の時、6組(理系進学志望クラス)で同じクラスになったのだが、津野さんは福岡大学の医学部に進学された。その後の事は全く知らないが、恐らくは、医師になられたのではないかと思う。
因みに、大学生の時に高3クラスの同窓会があったのだが、津野さんに、実は別府小学校3年の時にも同じクラスだったと話したら、とても驚かれていたが、別府小での私の事は全く記憶にないと言われてしまった(笑)。やっぱり影が薄かったんでしょうかネェ(笑)。
 
3年のクラスでは、関良弘君という男生徒が悪ガキのリーダー格となって3人組(後に4人組)を組んで掃除をサボったり、小学校の土手を忍者ごっこをして走り回ったり、授業開始前になると斥候(せっこう)を出し、大内田先生が職員室から教室に来るのを見張って、近づいて来たらクラス内に伝えるといった事をやっていた。
3人組とは、リーダの関君、お父さんが専売公社に勤めていた吉田久也君と私である。途中から堀定利君が転校してきて4人組となり、堀君が斥候長を担当した。
 
ある日、堀君が斥候に出ていたところを大内田先生に見つかってしまったのだが、堀君は先生に叱られても無言で抵抗し、罰として教室の隅に座らせられたが、堀君は頑として態度を変えず、給食時間になっても座った位置から動かず、一日ハンストをした事があった。かなりの頑固ものである。
この堀君とも高校が同じになった。
 
こういう悪そう坊主の集まりだったので、掃除をサボった時には、学級委員であった森由美子さんや津野るみ子さんから何時も怒られていたものである。この森さんとも、後に同じ高校になる。
 
我が家では、丸徳運送の社員が何処からか拾ってきた黒い雑種の犬を飼っていた。名前は、丸徳運送の頭2文字を取って「マル」と付けた。
なお、後にもう一匹飼い犬が増え、名前を丸徳の後ろ2文字を取って「トク」と名付けたが、そのうちに何処かにいなくなってしまった。誰かに譲ったのかもしれないが。
 
同じ敷地内に住んでいた伯母夫婦のうちには、秋田犬がいた。こちらは、伯母の旧姓の頭2文字を取って名前を付けていた。
 
我が家の敷地の東側は空き地になっていてススキなどが生い茂っていたが、そこがマルと私の遊び場になっていた。
 
2年の時から同じクラスだった塚本壽(ひさし)君は、別府(べふ)団地から新しく出来た茶山(ちゃやま)団地(一戸建て住宅街)に引っ越して来たので一緒に良く遊ぶ様になったが、お父さんは日紡(後のユニチカ)に勤めていて、当時は大阪から転勤して福岡営業所の所長をされていた。お母さんは背が高くて綺麗な人だったが、気さくな方だったので、ウチとは家族同士で仲良くお付き合いさせて貰っていた。塚本君には二人の妹がいた。下の妹さんは当時は幼稚園児だったと思うが、私の事を「ますくん」と呼んでいた。
時々、お宅に泊まらせて貰った事もある。ビックリしたのは、一つの部屋に全員が並んで寝るのだが、布団の中で横になっている状態の時に、何故か、枕元にお菓子が回って来るのである。普通のウチだったら、寝る時にお菓子を食べたら虫歯になるから駄目だと言われる所なのであるが、塚本家では親子で、布団の中に入った状態でお菓子を食べるのである。
それから、朝食に永谷園のお茶漬け海苔が出て来たのを良く憶えている。我が家では、そんなハイカラな食べ物は買う習慣が無かったので、初めて食べて、これまたビックリであった。
 
【追記:2022/7/14】
一昨年(2020年)だったか昨年(2021年)だったかはっきり憶えていないが、家の行事(法事or親族の結婚式)で帰省していた時に、たまたま旅行の途中で福岡に立ち寄られた塚本君のお母さん(大阪在住)が、ウチの母親に一目会いたいと言う事で実家に立ち寄られ、思いがけず、私も約40年ぶりにお母さんと再会した。塚本君の結婚式(1980年)にてお会いして以来である。まさか私が実家に来ているとは思ってもみなかった様であり、玄関に出て来た私の顔を見て、余りの偶然に塚本君のお母さんは、「まさか、稔ちゃんに会えるとは思ても見んかったワ」と言われて涙を流して大喜びされていた。
 
坂本毅君は、私の実家から坂を登った所にあった空き地(草野球が良くされていたエリア)の一画に建った一軒家に住んでいたが、お父さんは福岡簡易保険局に勤めていた。
 
加藤玄彰君は、我が家の数件先にある、角のタバコ屋兼商店「加藤商店」の息子である。現在は、ガソリンスタンドになっているが。
 
ウチが近かったので、このメンバで坂本君の家の近くの広い空き地(写真)で良く遊んでいたものである。
 
因みに、塚本君は、中学の時に、お父さんが本社に戻ることになり家族で大阪に戻って行ったが、文通は続いていて、通信教育の「Z会」とか「大学への数学」という東大・京大受験者が愛用しているテキストを教えて貰ったりした。彼の結婚式にも招待して貰った。
 
塚本君は、京大を卒業して日本電池に入社したが、英国留学のあと、退職して米国に渡り Quallionという会社を起業。優良企業に育て上げたあと、日本に戻り、京都で今度はCONNEXX SYSTEMSという会社を起業している。
 
1 我が家の飼い犬・マル(黒い方)と伯母の家の飼い犬・ワカ(秋田犬)
 
 
3 我が家の飼い犬「マル」。父の会社の名前「丸徳」の頭2文字を取って名付けた。
 
4 別府小学校3年4組。左から、塚本壽、坂本毅、加藤玄彰、私
 
 
塚本君は、米国からの帰国後にCONNEX SYSTEMSという会社を京都で起業して活躍しているが、下の写真は、来訪された皇太子殿下(2019年5月1日以降は天皇陛下になられている)の対応をした時の写真である。
 
6 2017年現在の塚本壽君。来訪された皇太子殿下(当時)の対応をしているとのこと。
 
7 起業したCONNEX SYSTEMS社の記事