別府小学校に転入


別府小学校に転入
時期:1963年1月8日(火)
更新:2019年3月27日(水)
 
2年生の3学期が始まる。この日から福岡市立別府小学校に転校した。
 
高取小の時の通学路は住宅街の道で600m程度だったが、別府小までは約1kmの道のりであり、かつ、殺風景なバス通りの一本道をひたすら歩いての通学だったので、結構遠く感じられた。
 
冬休み明けの初日、別府小学校に行ってみると、同じ福岡市立の小学校なのに、高取小学校とは随分と雰囲気が違いカルチャーショックを受けた。
まず、担任の先生の雰囲気が全く違った。年配女性の池田トモ先生であったが、生徒に対する言葉使いが、高取小の吉田二枝先生とは全く違い、命令口調だったのでビックリであった。しかも「オマエ」呼ばわりである。
 
そして数日後から給食が始まったのだが、別府小学校では、給食用に自宅から箸を持参しなければならなかったらしく、初日から「箸を忘れたのか」と池田先生から叱られてしまった。
高取小では、当然ながら給食にはスプーンが付いていたので、箸を家から持って行く習慣などない。同じ福岡市立の小学校でも学校に依って給食事情が異なると言うのであれば、当然ながら、教師が転校生に対して前の学校ではどうだったのかを確認すべきであり、給食事情が違ったのならば、転校生に箸の持参を指示すべきなのである。
それをやりもせず一方的に生徒を叱りつけるとは、その一点だけを取っても教師としての技術レベルが低いと言わざるを得ない。
これは私の勝手な憶測であるが、当時(昭和30年代)は、まだ小学校教員が不足していたらしく、代用教員制度と言うのがあり無資格で教員をしていた人もいたと聞いている。池田先生も、もしかしたらその口だったのかも知れない。
いずれにしても、池田先生の生徒からの評判はすこぶる悪かったのを憶えている。
 
それから、もう一つ高取小と大きく違ったのは、生徒がみんなマセていたと言うことである。クラス内には周りが認める男女のカップルが出来ていたのである。
 
それと、もう一つ驚いたのは、高取小の時に転出していった女生徒が、私が転入したクラスにいた事である。別に私が追いかけて来た訳ではないのだが(笑)。
 
それから、転校早々に、同じクラスの篠原君という男生徒と稲住さんという女生徒が声を掛けてくれた事を思い出す。二人とも自宅が私と同じ茶山だったので、気を使って声を掛けてくれたのだろう。
こういう気配りが出来るという点でも、別府小学校の子供達は、おマセと言うか、一歩先んじて成長していたのかも知れない。
  
まあ、転校直後のこの1学期間は、私にとっては高取小とのギャップが有り過ぎて異質な時間だった。
 
下の集合写真を見れば分かるが、全員が例外なく笑顔であり、とても不自然である。勿論、各自の自由意志で笑顔になっている訳では無い。池田先生の顔を見れば分かる(笑)。先生が生徒全員に「笑え」と強制しているのである。最前列の男子の笑い方がそれを物語っている。
 
それから、七隈に引っ越してからは、こんな事もあった。
ある雪が沢山降った日の学校からの帰り道であったが、茶山四つ角近くの下り坂の道の端に雪が沢山積もっている箇所があり、面白がって雪の上を踏んで歩いていたら、長靴がいぼって(博多弁:ぬかるみにはまる事)抜けなくなり、仕方がないので、雪道を裸足で走って帰った事がある。
家に着いた時には足の裏が冷たくて固くなってしまった。祖母(父の養母)がお風呂でお湯を掛けてくれたので何とか回復。その後で、祖母と一緒に長靴が埋もれた場所に行き、長靴を引っ張り出して帰って来たのを憶えている。
 
その頃は、祖母が徳島から出て来て暫く福岡に滞在していた時期であった。我が家は会社の寮であり、家族5人と数人の入寮社員が同居している状態だったので、祖母に泊まって貰える部屋が無く、祖母と叔父の親子は、向かいの伯母夫婦の自宅の一室を借りて滞在して貰っていた。
  
1 別府小学校2年1組に転校。担任は池田トモ先生。

名前
上から1列目 □□、吉田久也、、武田信幸、吉原・・、浅井・・、塚本壽、中橋英二、藤森郷治
〃2列目 □□、小川・・、西尾こずえ、松浦・・、□□、松本富士夫、中村?・・、長沢・・、篠原秀昭、武藤啓一
〃3列目 石原恵美子、□□、□□、山本みどり、□□、□□、□□、石川・・、□□、柴田・・
〃4列目 □□、福田・・、井手光枝、木村・・、大谷・・、萩原・・、安田・・、大森・・、松野・・、□□
〃前から2列目 渡辺泰子、□□、稲住典子、□□、□□、□□
最前列 □□、藤本・・、松村?・・、□□、□□、打越・・、金口せいじ、久保・・、打越・・、□□、栗林・・

 

 
3 真ん中の塚本君とは、その後、長い付き合いとなる。