七隈に引っ越し(1962年11月)


七隈に引っ越し(1962年11月)
時期:1962年11月18日(日)
更新:2022年6月24日(金)
 
1962年11月18日(日)、生誕の地・昭代町から七隈に引っ越した。現在の私の実家である。
 
丸徳運送も車の台数が増えたため、祖父が所有していた七隈の土地の一角に丸徳運送の車庫兼独身寮を建てることになり、我が家は寮の管理人&賄(まかな)い人を兼ねて七隈に引っ越した。
 
祖父が所有する敷地には既に、一番南側の一画に伯母夫婦の家があり住んでいた。中央部分の一画は空き地のまま残っており、北側の一画に丸徳運送車庫兼寮が今回建った。
 
車庫兼寮の敷地は、道路と建物の間に小型トラック2台分の駐車スペース(庭)を確保し、その奥に建物を建てた。建物は鉄骨2階建てであったが、地上部分は車庫になっており、小型トラックが4台駐まれる様になっている。居住部分は車庫の2階であり、階段は鉄骨の外階段、トイレは階段下に外トイレが造られていた。
しかしながら、トイレに行くためには夜中でも外階段を下りて家の外に出る必要があったのと、お風呂がなく銭湯も近くになくて不便だった事もあり、階段部分を家屋の内側となる様に壁を作り、階段下に風呂場を、階段を下りた所に小さな玄関を、階段を登った突き当たりに2階トイレを追加で造った。
これにより、家屋の中に、玄関、風呂場、階段、トイレが出来上がった。
 
学校の方は、兄が高取中1年,姉が高取小5年,私が高取小2年だったが、引っ越しが2学期の途中だったので、切りの良い2学期末までは転校せずにバスで前の学校に通い、3学期から新しい校区の学校に転校した。兄は城南中学校、姉と私は別府小学校である。
 
昭和37年当時の七隈の様子はと言うと、家の前はバス道路だったが、未舗装であり雨の日は水溜まりが出来る状態だった。
道路を挟んで西側は原野が広がっており、北方向を見ると、原野の向こうに城南中学校の校舎が見えた。それほど何も無い田舎であった。
(因みに、2019年3月時点では、この未舗装道路は片側2車線の道路になっており、道路の下には福岡市営地下鉄七隈線が走っている。)
 
電話はハッキリ憶えていないが、まだこの地区には電話網が敷設されていなかったかもしれない。
我が家は、地区に電話線が来るとすぐに申し込んで電話を入れたが、その後、道路の向かい側の原野に茶山団地(一戸建ての住宅街)が出来て、住民が入居した時に、団地のバス通り沿いの家の人から、仕事の関係でどうしても電話が必要なので、自宅に電話が入るまでの間、電話料金を全額払うからウチの電話を親子電話にして一緒に回線を使わせて欲しいと強く依頼され、やむなく親子電話にしていた時期がある。
プライバシーの問題等が厳格になった現在では考えられない事だが、当時はそういう大らかな時代だったのだろう。それに、電話の加入を申し込んでも直ぐには対応して貰えず順番待ちが発生する様な時代だった様な気もする。
 
1 移転時には茶山団地、城南高校、城南小学校も無く、自宅から正面に城南中学校が見えた。
 
2 上の写真の道路が現在はこのとおり大変身。左は市営地下鉄七隈線の金山駅(2011.05.03撮影) 福岡市城南区
 
3 自宅でアイロン掛け。現在の2階一番奥の洋間の場所に、この6畳の和室があった。
 
 
4 昔の階段(鉄製)。外階段だったのを屋根を付けて室内に改修。1階は車庫だったので、この階段から2階に上がった。現在の物干し場の位置。
 
5 昔の玄関。昔の階段を降りた突き当たりにあった。現在の1階奥8畳の和室(茶の間)の位置。
  
 
6 兄。福岡県自動車学校の横は、広大な空き地だった。現在は、団地(公務員住宅?)
  
 
補足)時は流れ、2022/6月現在、この公務員住宅は壊され、西側半分が、「特別養護老人ホーム[ケアタウン茶山]」、東側半分は空き地となっている。