昭代町時代(〜1962年11月17日)
時期:1954年7月~1962年11月
更新:2019年9月7日(土)
福岡市の昭代町(現:福岡市早良区昭代)は、私の生誕の地であり、小学校2年生の11月中旬まで過ごした町である。
当時を思い出しながら、つらつらと書き綴ってみる。
■ドブ川事件(笑)
当時は、家の前の道は舗装されていなかったし、側溝も整備されていなかったため、「ドブ」と呼んでいた濁った流れが道の片側(北側)に流れていた。
ある風の強い日であったが、近所の子供達と道路付近で遊んでいる時に、近くのおじさんから、子供どうしで駆けっこをしてみろと言われて、競走をした事があった。
ちょうどその駆けっこの最中に強風が吹き、道のほこりが舞い上がったため、走りながら思わず両目を閉じたのだが、気がついたらドブに突っ込んでいた。
その時に、耳の中にドブの水が入ったのが原因だと思われるが、外耳炎を患ってしまい、西新(脇山口)にある本多耳鼻咽喉科に通院するハメになってしまった。この時の耳鼻科通いがキッカケになったのか偶然なのかは知らないが、その後、大人になるまでの間に外耳炎や中耳炎で3度(合計4度)も耳鼻科通いをする事になる。
■ロバのパン屋
当時、「ロバのパン屋」と言うのが時々来て、蒸しパンを行商していたのを憶えている。
最初のうちは、本当に驢馬(ロバ)がパンケース仕立ての荷台を引いて売り歩いていたのだが、時と共に自動車に変わって行った。
蒸しパンの種類は、白、黄色、黄緑、黄土色と色とりどりであり、中身はコシ餡とクリームの2種類があったと思う。はっきりとは憶えていないが、1個5円か10円だったと思う。あの当時は、食パン(6枚入り)が25円の時代だったから。
このロバのパン屋は、テーマソングがあり、この歌が聞こえて来ると、子供達が通りに出て来たものである。こんな曲である。
■紙芝居
紙芝居のオジサンも時々、自転車で来ていた。子供が集まってくると紙芝居のセットを自転車の荷台に準備して始めるのである。それから、紙芝居の前だったか終わった後だったかは忘れたが、紙芝居の台になっている木箱の引き出しからガムや水飴を出して子供に売るのである。懐かしいですネェ。
■ポンポン菓子
こちらは、頻度的には少なくて、何年かに一度来る程度であったが、金網製の長いカゴの中に米粒を入れて熱を加えると、暫くしてからパンッ!というもの凄い破裂音がして、カゴの中でポンポン菓子(と私の周りでは呼んでいたお菓子)が出来ているのである。まあ、ポップコーンの材料であるトウモロコシの粒を米粒に変えて作った様なお菓子である。
確か、米粒は、注文するお客さん側が自宅から持参して来ていた様な気がする。これも懐かしい。
■豆腐屋
夕方のイメージがあるのだが、豆腐屋さんが自転車で豆腐を売り歩いていた。独特のラッパを鳴らして。
(インターネットは便利ですナァ。検索すると何でも見つかる。豆腐屋のラッパの音まで(笑))
■車押し
当時、家の前の通りを、特殊な手動運転のチョコレート色の車に乗って通るおじさんがいた。多分、脚が不自由な方で、手でクランクハンドルを廻すと、それが車の車輪と連動していて前に進むのである。
そのおじさんを見かけると、子供達で良く後ろから車を押してあげたものである。そうすると、おじさんも喜んでくれるので。
■踏切事故
当時の我が家は、国鉄筑肥線の線路沿いにあったのだが、家のすぐ近くにある踏切(国道263号線の荒江の踏切)で衝突事故が発生した事があった。
子供ながらに、恐い物見たさで現場に行った事があったが、列車と衝突したのはオートバイであり、傍に男の人が血まみれで倒れているのが目に入った。鼻から提灯(血の泡)が膨らんだり萎んだりしていたので、生きてはいる様だった。あの時のショックは大きかった。
■当たりクジの謎
この頃は、家の普段の買物は、同じ町内にあった「ヤマナカ」という小売の店で済ませていた。野菜やらパンやら、菓子、雑貨やらと置いてある店であり、当たりクジのお菓子を良く買いに行ったものである。
ある時、小さな紙袋に甘納豆が入っていてクジも同封されているお菓子が売られていたのだが、残りの袋の数が少なくなっていて、1等、2等の景品がまだ残っていた事がある。1袋の値段は多分、5円くらいだったと思うが、とにかく残り全部買えば1等と2等のオマケが手に入ると思い、ウチにお金を取りに戻り、残りの袋を全部買った事がある。それなのに、どの袋にも1等、2等の当たりくじが入っておらず、店の人が私の目の前で、自分の子供に1等、2等のオマケを与えてしまった事がある。インチキである。純真な子供を騙して良いのだろうか(笑)。
今この記事を書いていて、思い出したのだが、ウチにお金を取りに戻った時に親にねだって貰ったと思ったが、姉のお小遣いを勝手に持ち出して買い食いした事があったので、もしかしたら、この時がそうだったのかも知れない。姉上様、あの時はゴメンなさい m(_ _)m。
でもまあ、この当時は、この店しか近くに無かったから、アイスクリームやら何やら良く買ったものである。ホームランバーという当たりクジ付きのアイスクリームが10円だったし、餡子の入ったアイスまんじゅうが5円だったかな?
■潰れた貯金箱(笑)
当時、伯母の夫が銀行に勤めていて、銀行で貰ってきた立派な貯金箱を私にくれた事がある。10円玉を直径10cmくらいに大きくしたものを何十枚か積み上げた様なデザインの円筒形の貯金箱であり、金属製(真鍮製?)で10円玉と同じ色の貯金箱であった。
ある時、姉が学校でお金(募金?)を集めるのに貯金箱を学校に持って行く事になり、私は嫌がったのだが、とうとう私の10円玉デザインの貯金箱を持って行かれてしまった。
そして、後日、戻って来たのは押し潰された貯金箱であった。珍しがって生徒が貯金箱の上に乗ったか倒れたかして潰れたらしい(笑)。
■サーカス
一度、ウチの近くでサーカスの興業が催された事があり、連れて行って貰った事がある。勿論、サーカスなど初の体験であるし、そして今のところ最後の体験になっている。
印象に残っているのは、球体の大きな金網の様な仕掛けの中を、オートバイに乗った人がグルグル走り回るのである。横方向の回転だけではなく上下方向の回転もするのに、遠心力によりオートバイが球体の内面に吸い付いている様になって落下しないのである。
最近は、サーカスという言葉さえ殆ど聞かなくなったが、日本の何処かでまだ興業が催されているのだろうか?
■大濠公園花火大会
当時、城内町(福岡城趾の近辺に位置する町の名前)に伯父の家族が住んでいたが、大濠公園が近かったので、夏の大濠公園花火大会の際には、毎年、お堀端のベストポジションにゴザを敷いて場所取りをしてくれていた。だから、毎年の様に母方の親族と一緒に花火大会を楽しむ事が出来た。打上げ花火も凄かったが、クライマックスの仕掛け花火が最高であったのを憶えている。
今、この記事を書きながらネットで調べたところ、何と、昨年(2018年)の夏を以て大濠公園花火大会は廃止されてしまったらしい。平成の時代と共に消えて行くと言うことか。誠に残念な事である。
■祭
福岡の町では数多くの祭が催されているが、中でも、ゴールデンウィークの博多どんたくと、7月前半の博多山笠が二大祭りである。
当時は、福岡の町に未だ西鉄の市内電車(路面電車)が運行していたが、どんたくの期間には、沢山の電球で装飾された花電車というのが3台走り、市内の全ての路面電車経路をゆっくりと回ったので、見物するポイントを花電車が通過する時刻に合わせて、良く見に行ったものである。電車が目の前を通過すると、電球の熱が身体に伝わって来ていた。それくらい明るくて熱を発する花電車であった。
現在は、路面電車が廃止されているため、花電車に代わる花自動車が期間中に運行しているが、正直、迫力の差は段違いであり、まあ偶然遭遇したら見ると言う程度であり、わざわざ通過時間を調べて花自動車を見に行く気はしないのではないかと思う。既に福岡市民でなくなって40年以上経つので、実態は分からないが。
それよりも、博多どんたくは、昭和40年代の後半頃より、「見る祭」から「参加する祭」に変わって来ていると思う。市内の各地にステージが造営されて、各市民団体がお揃いの衣装を着て踊りを披露するという楽しみ方である。
一方、山笠の方は、昔と変わらず、飾り山➪舁き山(かきやま)➪追い山というフェーズで行われる各商店会組織単位(単位の事を「~流れ」と言う)が参加する形を継承していると思う。山笠があるけん博多たい!という言葉のとおり、博多山笠は博多の伝統である。
子供の頃には、多分、毎年の様に飾り山を見に行っていたと思う。そして、中洲の洋食レストランに入って家族揃って外食をすると言うのが、我が家の山笠の楽しみ方だった。飾り山と舁き山は見たことがあるが、追い山の方は、私はナマで見たことがない。
叔父が若い頃に、山舁きに参加させて貰った事があるが、法被に褌を締め、地下足袋姿で参加するのである。聞いた話では、山を舁いたあとは、肩の皮が破れて腫れ上がったという事であった。山は相当な重さと言う事である。
■海水浴
最近の事は分からないが、当時は、福岡市民(中心部より西の地区)の海水浴と言ったら、百道(ももち)浜、生の松原、長垂(ながたれ)、と能古島(のこのしま)がメインだったと思う。
ただ、一番近い百道は、子供の頃から「汚い」という評判があったので、余り行きたい海水浴場では無かった(現在は埋め立てられて影も形も無い)。能古島は、姪浜(めいのはま)という町の港から連絡船で渡る博多湾内に浮かぶ島である。檀一雄さん(檀ふみさんの父親)が住んでいたそうである。能古島には何度か行った事がある。やはり一番多く行ったのは長垂海水浴場だったのではなかろうか。
ちょっと遠出するが、中心部より東の和白海水浴場、糸島の方の芥屋大門(けやのおおと)、更に足を伸ばして唐津(佐賀県)の虹ノ松原(日本三大松原の一つ)にも一度行った事がある。
芥屋大門に行った時に、偶然、海賊八幡船(ばはんせん)という映画のロケをやっていたのを憶えている。
■西新
福岡市の中心(繁華街)は天神という町であるが、我が家から近かった「町」と言えば西新町である。
昭代町から西新町までは、1km弱の道のりであり、歩いてでも行ける距離である。西新にスーパーマーケットと言うモノが開店した時は、母親に連れられて歩いて買物に行ったものである。
それまでは、食料や日用品などの生活用品の買物と言えば、上に書いたヤマナカ商店の様な近所の店で済ます事が多かったが、「丸栄」というスーパーが出現してからというもの、人の流れが完全に変わったと思う。
とにかく安かったし、カゴに入れて最後に纏めてレジで精算すると言うのも画期的な買物スタイルであった。
西新には、商店街があったし、リヤカー部隊と言って、郊外の農家から野菜や漬物などを積んだリヤカーを引いて来てきて、西新商店街の道で販売するリヤカーの並びが名物の様になっていた。勿論、値引き交渉も有りである。
西新という町は、本当に活気のある町であった。
脇山口の通り(国道263号線)沿いに蕎麦屋があった。名前は記憶が定かではないが、「両国」という名前だったかも。
ある年の大晦日だった様な気がするが、祖父が年越し蕎麦を注文したら丼の中に砂が入っていたという騒ぎがあったのを憶えている。
西新には、東映、東宝という映画館があり、(大映もあったかな?) 怪獣映画や歴史映画(戦国時代もの)など、時々、連れて来て貰っていた。
ある時、何故か父と私の二人で東宝に行った事があったのだが、帰り道で、父に「寿司喰うか?」と言われて、贔屓にしていた下田町の寿司屋で握り寿司を食べた。店の名前は、今一記憶が定かではないが、「盛繁(もりしげ)」という名前だった様な気がする。
私は、当時は幼稚園児か小1くらいの年だったと思うが、まずは、父も私も一人前をペロリと食べ終え、「もう一人前喰うか?」と聞かれて「うん」と応えて、それも二人ともペロリと平らげ、また「もう一人前喰うか?」と聞かれて「うん」と応えて、計三人前ずつの握り寿司を食べて帰った事があった。
まあ、当時の私は良く食べたものである(笑)。
■青大将
我が家は、祖父(母の父)が所有する3軒の借家のうち敷地の西側にある二階建ての借家に住んでいたが、私が小学校に上がった頃だったろうか、別の借家に移り、元の借家は2階だけ継続して使っていた。
移った方の家は、国鉄筑肥線の線路沿いであり、窓から電車(ディーゼルカー)や汽車(SL)が見えた。
ある日のお昼頃、敷地と線路の境にあった金網の桟(サン)の所を、5m近くはあろうかと言う蛇(多分、青大将)がゆっくりと這って行ったのを憶えている。この蛇は、その後、祖父の家の裏に造っていた納屋の中に逃げ込んでしまい、祖父が煙りを焚いて納屋の中に流し、蛇を燻り出したのを憶えている。まあ、そんな時代である。
青大将については、その後、徳島に家族で里帰りした際にも、恐い思いをしたのだが、その話は別の機会に話す(笑)。
おでこの絆創膏は何だったっけ? 福岡西消防署の火の見櫓は、2014年の夏に現地を訪れた時には、既に無くなっていた。
1959年6月に母方の祖父と父とで起業した運送会社(本社は昭代町)。当初は三輪トラック3台で始めたが、台数の拡大に伴い福岡市南西部の七隈(現、城南区茶山)に車庫兼寮を造ることになった。写真は、その建築現場で撮影したもの。
ウチの家族は、私が小学校2年だった1962年11月にこの地に移転することになった。現在の私の実家である。
引っ越して来た当時は、家の前の道は未舗装、電話線もまだ敷設されていなかった。道の向かい側には原野が続き、正面には遠く離れた城南中学校の校舎が見えていた。
その後、原野が整地されて茶山団地が誕生し、更に、茶山団地と城南中学校の間に福岡県立城南高等学校(私の母校)、城南小学校が出来、城南中学校の背後には荒江団地が出来た。
未舗装だったウチの前の道も、今では片側2車線の幹線道路に変わり、地下に福岡市営地下鉄七隈線が走っている。
引っ越したのは1962年11月であるが、切りの良い12月(2学期末)までは、バスで高取小学校に通った。
■新調した服を着て大濠公園へ
■親族で太宰府に初詣
■麁原山にて。丸徳運送の社員と
■クラス写真